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2005年11月20日

東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)

さて、解説もいよいよ天正八年が近づいてきていますが、ここで少し話題を変えて。

織田信長と大和、といえば、一つとても有名な出来事があります。
それは、東大寺宝物、蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りです。

私の論文本文には出てこない話題ですが、信長と大和を語るのにはずせないと思いまして、本格的に、本文の内容の解説に行く前に、触れておきます。


さて、この蘭奢待。検索すれば分りますが、東大寺は正倉院の宝物として、保存されている香木です。

詳細については、wikipediaのリンクを張っておきますのでご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/蘭奢待


(余談ですが、私も学生のころ正倉院展で見た記憶があります。)

この香木。一般に過去に三度だけ切り取られたと言われています。
足利義政、織田信長、明治天皇。

(後日追記 よく調べると、室町将軍を始め、なんども切り取られているようです。)


それにしても、信長は、どこでこの知識を得たのでしょうか?

ともかく、天正二年三月の事。といえば、松永久秀が裏切って、多聞山城を追われた直後です。
信長は蘭奢待を見たい!と言い出しました。時の正親町天皇にお願いしています。一度目は東大寺に断られましたが、改めて頼むというわがままぶりで、ついに信長がわざわざ、奈良の多聞山城までやってきたのでした。
このころの多聞山城の城番は柴田勝家。また、東大寺と折衝した奉行に、後の大和守護、原田(塙)直政もいました。
これはヤバイと思ったのか、東大寺側はおそらくしぶしぶ取り出して見せました。
そして、信長は先例に習い、ざっくり切り取って、おそらく随分ご満悦だったのだと思います。

その後は特に奈良や大和を検分するでもなく、さっさと帰って行ったようです。


それにしても、東大寺は、数年前には戦火で大仏殿は焼け落ちるし、正倉院の宝物は勝手な成り上がりものに切り取られるしで、散々な時期でしたね。
ただ、多聞山城が織田政権下の有力武将が抑えていたというとても短い貴重な時期に、このようにして信長が一仕事しに奈良まで足を運んでいたと言うのも、興味深い歴史の事実ですね。


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posted by taigon at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月19日

多聞城の破却と、久秀の謀反

かんたん編!

天正四年に筒井順慶が大和の守護として信長より任命されると、続いて、順慶は信長から多聞山城の破却を命じられます。
多聞城といえば松永久秀自慢の居城でした。後に多聞櫓にも名を残す、四層の櫓(いわゆる天守)をあげた初めての城ともいわれています。

松永久秀は、信長にはむかったため、多聞城を追われ、その後恭順の意を示すも、大和の支配権は剥奪されました。その上、原田直政の死後、筒井順慶に守護が任せられ、かつての居城多聞山城が破却されるにいたり、どのような気持ちでいたでしょうか。

久秀は、未だ大和信貴山城を居城としていました。多聞山城は、信貴山の松永久秀が恭順したとはいえ、いつ奪還に来るかも分らないのもあり、破却されたとも思われます。

翌天正五年、やはり久秀は謀反を起こします。これが最後の抵抗でした。
彼は信貴山城にこもり、織田軍と戦い、そして敗れ自害します。
以前にも書きましたが、その時、城に火を放ち、爆死したと伝えられています。

一時期大和で大きな権力を誇った松永久秀が滅亡し、変わって筒井順慶が大和の支配をするようになったのでした。
順慶は、その居城「筒井城」を拠点として、大和の支配をしました。
この後、順慶は大和衆を率いて、各地を転戦していきます。支配といっても、主に軍を統率する役目だったと考えています。

そして、いよいよ天正八年を迎えるのでした。
posted by taigon at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

ご連絡です!

この度、「織田政権と大和」論文本文を独立ブログとして掲載することになりました。

その名も織田政権と大和

トラックバックやリンクを利用して、こちらのブログと上手く行き来しながら、見やすく構成していく予定です。
あわせてご覧くださいませ。
posted by taigon at 09:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月15日

原田直政の死

かんたん編

大和の守護として赴任してきた原田直政について少し。
元々塙(ばん)直政と名乗っていましたが、天正三年の信長の武将達が叙任を受けた際、原田備中守となりました。

信長の信頼も扱ったようで、今まで見てきたように、複雑な土地柄で支配の難しい大和の守護に任命される、その以前にも、同じように政治的に複雑な京の膝元「山城」の守護にも既に任命されており、二国の太守でした。

余談ですが、この京と奈良は、現在でこそ府県名ですが、当時は都市名で今で言う東京23区や、大阪市のような、政令都市や特別行政区のような存在でした。もちろん京は都ですし、奈良も南都とよばれ、かつての都として、特別な存在でした。
私の記事でも、「大和」と「奈良」を別の意味で使用する時もありますので、読んでいる方が混同しないように、気をつけて記事を書きます。


さて、その原田直政の役割は、統治している大和、山城の国人衆を率いての本願寺戦でした。
つまり、大和を支配するための具体的な政策はおそらく出されていないのだと思います。大和の国人達も、信長に支配されていると言う気持ちを持っていたのかさえ、疑わしいです。

しかし、ここで大和の国にとって大きな転機が訪れました。
天正四年、本願寺攻めで直政が戦死してしまったのです。この戦での織田軍の損害は甚大で、信長自らも救援に駆けつけるも負傷するという散々なものでした。戦後原田一族が信長から追放されました。
大和の守護職が戦死し、新たに人選することとなり、地元大和から、筒井順慶が選ばれたのでした。

これらの連絡は、明智光秀がもたらしており、原田亡き後は光秀が大和山城方面の世話役となっていった様子が分ります。

いずれにしても、織田政権下において、ここで初めて大和の国人に国の統治を任せることになったのでした。
posted by taigon at 15:59| Comment(6) | TrackBack(2) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月01日

信長の初期の大和支配

かんたん編。

大和統治に乗り出した信長は、松永久秀を多聞城から追い出すと有力武将を多聞城の城番として派遣します。

その顔ぶれは、
明智光秀細川藤孝柴田勝家原田直政といった、有名どころです。

始めの明智、細川というところは、一ヶ月ごとにやってきており、松永久秀の多聞山城退去後の混乱を治めるために、派遣されたとみられます。

柴田勝家は天正二年三月よりおよそ一年間滞在したことになっています。常駐したかどうかは別にして、奈良の施政に干渉したと言う記事もあり(詳細は不明です)、松永のころ同様、興福寺に対して上からものが言える立場だったのではないでしょうか。
しかし、柴田にしてもやはり、奈良の町に対する奉行のような立場だったと思われ、大和一国の支配を任せようと言う立場ではなかったようです。

その状態に変化が起こるのが、原田直政の登場です。
彼は、文献の言葉を借りると「守護」として、赴任してきます。織田信長によって、大和一国の支配を任されたのでした。
原田自身がどのような施政を引いたのかの詳細は分りませんが、信長が上洛していらい、一貫して、法隆寺など有力寺社に矢銭を要求しています。矢銭とは「やせん」と読み、軍用金のことで、兵隊を出せない寺社勢力に金銭的な協力を要求(というより強要)するのです。

このころ、信長の最大の敵は大坂の本願寺(一向一揆)石山城で、大和はその意味においては戦争の前線に位置しました。
大和国人たちも、信長に味方する武将達は、度々石山へ戦にいっています。
原田直政は本願寺戦の総大将という立場だったとも考えられています。
このころは、松永久秀もまだ改めて織田方の武将として働いており、今まで敵対していた大和国人衆とともに本願寺攻めにも参加していました。

一国を原田直政が任されたとは言え、この石山合戦とよばれる、本願寺との戦いが終わらない限りは、畿内で安定した政治をすることも不可能だったのではないでしょうか。
posted by taigon at 18:46| Comment(4) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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