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2007年06月22日

NHKのその時歴史が動いた

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/

いやあ、タイムリーな放送でした。
日頃あまりこの手の歴史番組は見ないのですが、
思わずDVDに録画してしまいました。

相変わらず、ウワバミをすくって、どうぞこんなに凄いよ!
と言う感じの本当の中身が見えない編集の仕方ですが、

本願寺が蓮如上人一人により大きくなった事
御文や道場が、組織発展に大きな影響を及ぼした
巨大化した組織が暴走した事実

ということなどは、よく分かったと思います。

ただ、吉崎も山崎も大坂も、なぜ、その地を得る事が出来たのか
なぜ、蓮如亡き後、戦乱に巻き込まれたのか

などももう少しあれば良かったかな〜というのは、政治史を勉強する私の個人的な意見。

とにかく、蓮如上人は、平和を求め、平和を望み、平和な国をつくりたかった。という事をとことん実践していった、稀有の英雄だということは、よく分かったんじゃないかと思います。

本来の本願寺の巨大化の真相はそこ(平和)にあり、巨大なるゆえに、常に政治に大きく関わり、そして、最後は信長と全面戦争にいたるのでした。

そのことはまた次回!
posted by taigon at 16:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月19日

本願寺の歴史

歴史に詳しい方なら誰でも知っている事を、書きます。
最近読んだ本には全て同じ事が書いていました。

親鸞を祖とする真宗。
そのうちの一派、本願寺派。
中興の祖といわれるのが、親鸞から数えて十世の孫、本願寺八代法主蓮如。

その教えるところは
南無阿弥陀仏の名号を唱え、一心に信仰する心を持てばすべての者が救われる。
極楽浄土が保障される。女人と言えども例外ではない。

蓮如が法主となったときの本願寺は大変さびれていたが、蓮如一人の恐るべき努力で、一大勢力となります。

時代は十五世紀後半。
京近郊では一揆が頻発し、武将の家督争いが激化、幕府では、八代将軍義政の後継者を争いが発展し応仁の乱が勃発。
日本全国大混乱の時期にあたります。

そんな中、蓮如は布教に邁進。どのような者にでも気さくに会い、講と呼ばれる道場を中心とした仲間を作るよう進め、その人々に、各地から頻繁に自らの思いを託した「御文」と呼ばれる直筆の文書を出し、常に一心同体を意識させて、共に信仰に努められるよう組織していきます。

道場では法要のあとには、酒が出され、言いたい事を話し合い、女性も参加していました。
道場の求心力は大変なものだったと思います。

蓮如自身、妻帯し、子供も27人もいたと伝わっています。


一大勢力への変身した本願寺派は、他宗のみならず同宗他派からの圧力攻撃にさらされ、また、各地の有力者にも一目置かれ、ついには、政治の道具として、政争に巻き込まれていく事になります。
その組織力と多勢により、ついには加賀の内紛に関与し、圧政に対し発起し最終的には、加賀の守護を自殺に追い込みました(加賀一向一揆)。その後90年にわたる百姓のもちたる国と呼ばれます。
しかし、蓮如自身は政争に巻き込まれたり、利用される事は望まなかったといいます。

大きな弾圧は1465年の叡山僧兵による、大谷本願寺の襲撃から始まります。堅田に身を避けるも、1468年の堅田大責(かただおおせめ)となど迫害は増します。
叡山からの迫害を避けるため、はじめ現福井県の吉崎に道場を開きます。
これが加賀一向一揆の発祥といえます。しかし、その争いをさけるように、吉崎を退去。そして、山城山科に本願寺を再建。1480年に御影堂が完成。
さらに、蓮如が無くなる三年前の1496年に、土豪からの寄進により石山本願寺ができました。この石山の本願寺こそ、信長と10年にわたる戦を繰り広げた場所です。

蓮如が生きた時代は、信長よりも一世紀近く前ですので、その業績はそこそこに、次回は、一向一揆が政治にどう関与し、いかに利用され、最終的に、なぜ石山に信長と戦わなければならなかったのかを、書きたいと思います。
posted by taigon at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月08日

「一国破城」「大和指出」の復習です。

久しぶりに、本文の解説をに戻ります。
ここで少し復習です。

私が注目した信長の大和での政策は、
天正八年(1580年)に行われた「一国破城」「大和指出」と呼ばれる二つの政策です。

「一国破城」とは、大和国内の城を大和郡山城を除き全て破壊させるというもの。
「大和指出」とは、大和の国内の寺社国人などの所有する田畑などの面積や年貢高を、報告させるというもの。

でした。

どちらも、同じ時期に一国規模で行われておりました。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/7292385.html#more


当時の大和の情勢は、
長年にわたり、興福寺管符衆徒の棟梁の座を争っていた国人。
それ以上に、応仁の乱など、あちらこちらの片棒を担ぎ、京の情勢に左右され続けた大和住人。
そうこうしているうちに、松永久秀という、三好長慶の配下が、大和に侵攻することを認められ、信貴山と多聞山に城を築き支配しようとする新しい展開。
これは、それまでずっと興福寺権力の下でいた大和に、まったく新しい風が吹き始めた事を意味します。
松永久秀は、さらに時の覇者織田信長によって、大和の仕置きを許され、従来の国人たちには辛い日々が続く。
しかし、ついに好機到来、松永久秀が信長に謀反。すばやく筒井順慶を始め大和国人は信長の配下になることに成功。
いよいよ大和国人に大和の支配を任されるのか!と思いきや、信長は直参の有力武将を次々に派遣し、大和の支配をしようとする。

しかし、大和の外に目を移してみると、信長は、信長包囲網に苦しみながらも、幸運が味方し、武田信玄が死に、将軍を追放し、上杉謙信が死に、と少しずつ事態は好転し、後は本願寺を屈服させるのだけ、という状態まできていました。

大和に目を戻すと、大和の支配を受け持っていた、原田直政が一向一揆との戦いで討ち死にするという事態が起こり、ここについに、筒井順慶という、大和の有力武将に、信長は大和を任せることに下のでした。

しかし、その後まだ、本願寺との戦の終結には数年を必要としました。


そして、ついに本願寺との戦が終わったのが、天正八年でした。

織田政権の安定には必要だった、本願寺との戦いの終結。
そこについて、次回は解説できればと思います。
posted by taigon at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月05日

『戦国の世』(岩波ジュニア新書 日本の歴史)

今回読み終えたのは、

今谷明著
『戦国の世』日本の歴史(5)
岩波ジュニア新書シリーズです。

率直な感想は「え!!これがジュニア向け!?」です。

この前の、本郷氏の著書が、とても易しいものだったんだなと感じました。
なぜなら、漢字やその語彙が難しい。
普通の中高生に理解できるのか?

私が母校の中学校へ教育実習に行ったとき、
大仏建立について「鎮護国家を形成するための」とか、いう表現したら、誰一人として、その意味は理解し得なかった。。。
なのに、誰があの漢字だらけの文章を読んで、歴史が楽しいと理解できるのだろうか?と思いましたが、ほとんどの読みにくい漢字にひらがながふってある辺り、ジュニア向けなんだなと思えました。

巻末に著者が、ページの都合で、表現が難しいものになってすみませんみたいに書いていたので、ああ、なるほどと思えました。

ただ、
やはり、今谷氏の中世史の書き方は読みやすく、理解しやすい。
氏の表現が私にあっているのだろうか?

私自身、そろそろ(やっと?)足利政権下での人物の名前ややった事跡などを覚え始めて来ました。よくこれで、史学科を専攻していたなと恥ずかしくなる今日この頃です。

さて、本の内容ですが、






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posted by taigon at 17:01| Comment(7) | TrackBack(1) | 信長関係書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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