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2007年07月26日

おしらせ

8月半ば頃まで、更新をお休みいたします。

すみません、もうしばらく復帰に時間がかかります。

しばらくはお待ちください。
posted by taigon at 13:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月21日

中世城跡に建つ我家

今日は二つ目の記事。本文とはあまり関係ない話です。


今日は私自身とんでもなく驚いたことがあったので紹介します。
先日から筒井順慶の大和郡山城入城に関して資料など確認しなおしていたら、

順慶は矢田(大和郡山市)で郡山辰巳を殺した

というものを見つけました。
以前からこのこと自体は知ってましたが、改めて発見して、なんだか新鮮だったので、矢田は歴史的にどんなとこなんだろう?

と思い、検索をかけてみると

あるブログに「矢田城」とあるのを発見。



え、矢田城ってあったの?

http://blogs.yahoo.co.jp/a02221370209/8931199.html
思わずコメント残しちゃいました。。。


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posted by taigon at 16:31| Comment(5) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大和郡山の位置情報

いずれ、用意できたら、アップしたいと思いますが、表や図もいくつかあります。
そちらを見ていただければ、もっと分かりやすく情報を提供できるのですが、今しばらくお待ちください。



筒井氏の本拠は、大和「国中(くんなか。奈良盆地のあたり)」の現在の奈良県大和郡山市筒井町、近鉄筒井駅のすぐ近くです。

大和郡山城は、目と鼻の先です。
筒井より、まっすぐ北に2kmあたりにあります。

勢力範囲内といえば、そうなのですが、
筒井氏は筒井の城を何度か追われているのですが、
布施、福住あたりが拠点となっており、郡山に入城という記録は見たことがありません。

郡山のあたりは、郡山衆が抑えていたのですが、この郡山衆もいろいろで、松永を迎え入れて辰巳殿が一番勢力が大きかったようです。
確かに、郡山衆も筒井一党として松永と戦っているので、筒井方ともいえますが、順慶の一存で居城をそこに移すという事は、可能性が低かったでしょう。


また、大和にはそのほか、大和高取城、大和秋山城が、天正八年以降、改めて近世城郭として復興されます。
このあたりは、筒井氏の勢力範囲とは比較的遠い場所です。また、ずっと筒井氏と勢力争いをしてきた、大和の南方は越智氏の勢力圏に近いところでもあります。
また、高地にあり、さらに奈良(この場合、現在の奈良市)とも近くは無いです。

一章で検証したように、奈良支配、また、実力者の南都の寺社ににらみを聞かせるには少し遠いでしょう。

興福寺のある、現在の奈良市東部と、郡山城のある大和郡山市中央は、近すぎず、遠くなく、という感じです。
松永久秀の築いた多聞城は、南都の出入り口を押さえる重要な地です。

私は、多聞城跡でも良かったように思いますが、山城方面との境で、どちらかと言えば、大和支配には北方に寄りすぎともいえます。


ともかく、大和にもともとあった城郭。
大和の国人が、大和の勢力争いのために築いた、領地のある館といざと言う時の山城というセットで存在していました。

地図だけで見ると、郡山城は、奈良県の中でもずいぶん北に位置しますが、
今、吉野地方を分けて考えると、奈良盆地の中央辺りにある丘陵をうまく利用しているのが郡山城であるとわかります。

さて、次回は、地の利について流通などから見ていきたいと思います。
posted by taigon at 10:32| Comment(0) | TrackBack(1) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月19日

大和郡山城!

かんたん編

いよいよ後半、第二章へ入りました。

やっと一番最初に疑問を持った、「郡山城選択の理由」という内容に行きます。

卒論本文では、くどくどと、「なぜこの郡山への着眼が大事なのか」ということを書いていますが、
簡単に言えば、このブログでも以前に書いたとおり、「あの織田信長が大和で一国規模の城として選んだ」というだけで、十分検証対象になると思うのですが。どうでしょう。

あれほど、安土城の研究はすすんでいるのに、郡山城を信長が選んだ理由はだれも目をつけないなんて。


一章でも言いましたが、天正八年は、信長が本能寺で殺されるたった二年前です。織田政権の終末期です。
さらに、既に安土城などが建設された後であり、本願寺戦が終わって、これから畿内を統治し、また、全国へ展開していく、という時期であります。

郡山城は織田政権崩壊後も、豊臣政権、江戸幕府と時代は移っても重要な城として整備発展していきます。

郡山築城の監督には明智光秀が足を運んでいる事も分かっています。


それにしても、筒井氏在城中の郡山の史料はあまり見かけません。
城下町政策など。
このようなものが見つかれば、想像に頼らなくても、いろんな真事実が明らかになるのだろうと思うのですが。


さて、これからはお城関係の話も出てきます。
また、都市研究、流通、経済などの話も出てきます。
そのあたり、私は全くの素人で、(というか全てに素人です)基礎知識も不足していますし、常識はずれの発想もあるかもしれません。

おかしな文面を見かけられましたら、ぜひ、コメントなりメッセージなりを頂けましたら幸いです。
面白い内容だと思われた方も、ぜひ、コメントくださいませ。


さて、大和郡山の歴史をほんの少し触れておきます。

http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/rekisi_flameset.html
市のホームページでも見れますので、ぜひご覧下さい。
(余談ですが、この歴史辞典には昔検索システムが無かったのです。そこで私がメールで要望したら、次の週くらいに検索できるようにしましたって、返信が来たんですよ。対応の早さに驚きました。)


郡山と言う地名は、日本各地にありますが、地名辞典などによると、古代の公の地方局のような機能したものの名残だったと思うのですが、私の記憶が非常にあいまいなためこの解説はやめておきます。


さて、大和の郡山に関して言えば、ここを根城に活動する郡山衆と呼ばれる一団がありました。
どうも、悪党の類だったようです。
中世は、筒井氏の一党だったり、裏切ったりと、これはもう大和の武将を調べる上で本当に厄介なのですが、史料が変わるたびに、あちらの側こちらの側についています。

天正八年は、郡山衆の辰巳殿というのが一番大きな勢力だったんですが、筒井順慶入城にさいし、滅ぼされています。
私はこの事実には驚かされました。

多聞院日記には、松永久秀大和乱入の際に、その手引きをしたのが郡山辰巳殿だったが、その恨みを順慶が忘れていなかったので、滅ぼした。というような書き方がされています。

私はそれだけじゃなく、新しい城を築くのに、邪魔だったのじゃないかなと思ったりもします。

しかし、これを見ても、順慶が前々から郡山を居城にしようして整備していたとは考えにくくなります。
もともと郡山にいた者を滅ぼさなきゃならないのですから。順序がおかしくなりますよね。


筒井城は、いろんな資料に見えるとおり、洪水の被害にあいやすい田んぼの真ん中の平城で、今でも堤が残っているのですが、大和川の支流が流れていて、洪水の際は、田んぼが流水地として氾濫し過ぎないように水の流れを計算した堤を作っていました。
近世城郭として整備するには、確かに条件は良くないです。
しかし、順慶が松永退去後の多聞山の城石を筒井に持ち帰っているんですが、これは筒井城を石垣造りの城郭にしようとしていたのではないかと思ったりもします。
それは、masaさんと言う方のお話でもあったのですが、筒井氏は結構鉄砲に精通しています(また後日紹介します)。
鉄砲戦を想定した場合、石垣造りの城が有利だとも考えられるからです。

筒井から引っ越すにあたり、郡山以外でどこかいい土地が無かったのかと思いますが、それは、次回にまとめて書きましょう。
posted by taigon at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月18日

本論 おわりに

本論の最終章です。
全体のまとめを書いています。




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posted by taigon at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文!織田政権と大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月17日

第二章 第二節

本文の第二章 第二節です。

大和の流通を信長がどう支配しようとしたのかを書いています。


卒論本文を纏めて読むにはこちらのブログでも可能です。
便利です。どうぞご利用ください。
http://taigon-net-rekisi2.seesaa.net/



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posted by taigon at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文!織田政権と大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月16日

第二章 第一節

一章の解説は如何だったでしょうか?

それでは、卒論本文の、二章〜まとめ を数回に分けて掲載します。
長くて読みにくいと思いますがご了承ください。

ちなみに、卒論本文を纏めて読むにはこちらのブログでも可能です。
また、便利です。どうぞご利用ください。

http://taigon-net-rekisi2.seesaa.net/


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posted by taigon at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文!織田政権と大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月15日

弱腰な信長?そのバランス感覚

第一章もいよいよまとめが近づいてきました。


私は、こう結論付けるわけです
大和の二面性、それは

経済力の寺社=興福寺
軍事力の武士=筒井氏

しかし、筒井氏は、興福寺の官符衆徒であり、興福寺から言えば、配下です。

指出検地で、筒井順慶を担当奉行にすると、寺社に対し厳密に短期間に終わらせると言う強圧的な監督ができなかったんじゃないかと
そこまで信長が読んでいたのではないだろうかと思ったのです。

また、寺社勢力の荘園について、織田政権自らが監督下におくという措置にもつながりそうです。
筒井順慶が大和の守護と言う立場で、預け置かれたとしても、寺社の経済力を武将が自由にできないのであれば、地盤は半減するようなものですから。

また一方、城割を順慶に任せたのは、大和国人を軍事的に纏め上げる立場を明確にしたのだと思います。

指出の結果にも、信長は急いで新しい政策を打ち出すわけではなく、内容を安堵しています。
土地を取り上げるのでもなく、また、縛り付けるのでもなく。
但し、土地情報を書き出す方法を、「石高」という、米の年貢高に統一した上で、それを一国規模で把握したのですから、これは大和の歴史の上では画期となりえます。
また、国人に関しては、四名の武将が生害させらて、土地を取り上げられています。城割により、拠点も破壊されています。
これでは、大和の国人たちの好んだゲリラ戦法ができませんし、300もあったという、城館が失われた事により、大和国内の内戦もなくなるでしょう。
これは、大和だけに限って言えば、突然わいた平和的政策です。


大和が一国規模で、
武将は筒井氏の管理下に、そして寺社勢力は政権自らの管理下においたことが伺われるのです。


しかし、ここでいくつかの検討すべき内容、考え直すべき内容もあるのです。

筒井順慶は、あくまでも興福寺の僧なんです。
また、筒井氏も寺社に対する力も持っています。
いろんな意味で、なぜ、この期に及んで、筒井順慶が、大和の守護に選ばれたのでしょう。
信長でも、大和統治は難しいと思っていたと思います。
それなら、比叡山や本願寺を武力で制圧したように、大和の興福寺も武力で制圧すれば話は早かった?

しかし、大和には比叡山のような大きな反対勢力も無かったのです。
松永征伐にも、協力的です。矢銭も拒んでいません。

ただし、いくつかの信長による高圧的な処置があったようですが、なんと、順慶がうまく対処して、それを回避したりしています(詳しくはまたいずれ)

この微妙なバランスにより、まるで、信長が大和に対しては全く弱腰でその実力を発揮していないような、信長らしくない姿がみえるのです。

世間の、信長像を作り上げる時、大和のこういう政策方法を皆さんは知っているでしょうか?
比叡山焼き討ち、本願寺の制圧、皆殺し、幕府を滅ぼすなど、その苛烈さばかりが印象的ですが、信長は下手な消耗戦は実は好まなかったのかもしれません。

しかし、第二章に入れば、また新しい信長の実力が見えてくるのです。
それは、真綿で首を絞めるような、非常に時間をかけた粘り強い方法による、改革です。現代にも通用するような方法です。
そこを一緒に見て行きたいと思います。
posted by taigon at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

大和の歴史を振返る

大和の歴史については、このブログでも何度か紹介してきました。
このブログの初期の内容は、大和の解説が多いので、まだお読みで無い場合、ぜひご覧下さい。
ある程度、このブログもまとまってきたら、整理して読みやすくしたいと思っていますが、それはまた余裕が出来たら行います。
今は卒論の本文に沿ってかんたん編を書いているので、ともかくすすんでいきますね。


さて、私の卒論の一番の弱みがこの第一章二節です。

何せ、荘園制の勉強などしたこともないのに、荘園の大本所が支配する、大和の歴史を書かなきゃならないのですから。
しかも、このブログに載せいてる文章は、少し手直ししたもので、卒論自体はとてもひどかった。
私の恩師が、なんとあの村田修三先生に私の卒論を送って、その感想を求められているのですが、

「本当に中世史をちゃんと勉強して理解してるの?」

というような、村田先生の手紙が返ってきました。
一章二節の部分を読まれての感想ですね。はずかし。。。

だから、今回のブログでも一番稚拙で恥ずかしい内容なのですが、まあいいやということで載せています。

なぜなら、卓見もあるからです(自分で言うな)。
改めて、このかんたん編が終わったら、詳しく検証していきたいと思います。お楽しみに。
正直、今の学生さんで、この二節の内容をやる人がいたら、きっといいお題になると思います。興味のある方はコメントくださいませ


さて、本文の解説(できるのかな?)にもどります。

大和は、興福寺と言う寺社が守護という、日本全国例を見ない国です。
その興福寺が、武力を持っていました。いわゆる僧兵ですが、それぞれ大和の各地に所領を持って、在地領主という立場でもいました。興福寺の中にも派閥のようなものがあり、争っていたりもしました。また、興福寺以外にも有力寺社もあり、そこに所属する在地領主もいました。

当時、寺社は、荘園を運営していて、そこからあがる税収で生計を立てていました。
しかし力をつけた在地の国人に荘園を侵食されて、税が上がってこないこともありました。

少し難しいのですが、
在地国人にもいろいろな事情があって、反対にお寺に領地を寄進して、寺の支配下に入ることで得する事もあり、多くの国人が興福寺の支配下に入ったりもします。
税(というか上納する先)をどこにするかっていうだけの違いです。
(つまり、年貢を幕府に納めるのか、寺社に寄進して荘園管理人にしてもらい寺社に上納米を治めるかということです)


ともかく、ようは、大和はお坊さんの支配する国だったのです。
武士でもないのに、幕府組織の守護という扱いですから変な話です。
筒井順慶は、興福寺僧兵の代表者のようなものでした。
以前書いた内容です。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/8218636.html

しかし、長く続いていたその体制にひびが入ったのが、松永久秀の大和侵攻です。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/8390854.html
あの有名な悪者にされる武将です。松永久秀の軍隊は協力で、あっという間に、筒井氏を筒井から追い出し、興福寺にも命令するくらいの立場になってしまいます。
さらに、信長が入京した時には、久秀と信長は事前に連絡をとりあってもいたようで、さっさと信長の支配下に入ってしまい、大和を任せると言われます。
そして、信長より兵力を借りて、どんどん反対勢力の討伐に乗り出すのです。

大和国人はたまったもんじゃないし、興福寺も困り果てていました。

しかし、信長と松永久秀の関係にひびが入ります。
もともと畿内でそれぞれの領地で頑張ってた武将たちが、突然やってきた成上がり者(信長)に言いたい放題やりたい放題されるのが我慢できなくなってきて、反織田同盟ができます。
それが、足利将軍始め、大小名の連合隊ですが、松永久秀もその誘いにのったのです。

筒井順慶始め大和で松永軍に虐げられてきた国人衆は、これを機会に信長に近づきます。
辰市の戦いで、筒井軍は松永軍に大勝し、その戦勝をすぐに信長に報告します。

松永久秀がせっかく奈良から力が落ちたと思っても、次に、信長の有力な武将、原田直政が大和の守護としてやってきました。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/8850279.html

その原田も、本願寺との戦いのさなか、天正四年に討ち死にをします。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/9365993.html

遂に大和を筒井順慶に「任置」という措置がとられました。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/9546216.html


そして、大和はその後筒井順慶が大和の国人を率いて、信長の命令に従って、各地を転戦していたのです。

つづく
posted by taigon at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月13日

政策実行者の違いに注目

一章の解説をつづけます

さて、「なぜ郡山城なの?」という、子供っぽい発想から始まり、その答えを探す事に当時の私は終始するわけですが、
しかし今振り返ってみれば、研究対象としてこっちの方が立派な発想だったんじゃないの?という発見を私はしました。

それは、「大和指出」の時、信長の命令を受けて滝川・惟任という二人の「指出奉行」がやってきたことです。
これは事実であり、個人が発見したとはいいませんが。
織田政権下では、なぜわざわざ奉行が派遣されたんだろうと思えるところがあるのです。

そこが、第一章のポイントになるのですが。

織田政権の支配体制に「一職支配」というのがあります。
これは、前回紹介した、脇田さんが作られた言葉なのですが、織田政権下において、配下の武将が「地域支配」をした、という意味です。

戦国期の武将は普通、本拠地意外に、いろんなところに領地を持っていました。
さらに、その配下も、自分が治める国のうちに本拠があるとは限りませんでした。
あちらこちらに飛び地をもっていて、それを大名に安堵されたり、自分の実力で維持していたりと、複雑でした。
拠点となる館や城があって、それ意外に税金を取れる土地が、隣の国の○○村にあって。と言う具合に。

それを信長が1573年(天正元年)足利義昭を京から追い出して、室町幕府を滅ぼした後くらいから、配下の有力武将に、地域(郡)単位で支配をさせていきます。
地域に配下の有力武将を派遣し、さらに与力と言う名前で、また違う配下の武将を、その地域に派遣し、一つの軍団としてまとめる。
そして、一職支配権に基づいて、武将が責任を持って土地を支配します。

つまり、普通の人が想像する、一般的な大名の姿のようなものです。
ただし、一職支配者にもいろんな制限があり、あくまでも信長に権力が集中しているのは変わりません。この辺りが、室町将軍と守護との関係の差です。
(これも、この段階で詳しく話しすぎるとややこしくなるので、これくらいにしておきます)

この件に関して、面白いページを見つけたので参考にしてみてください。
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html


さて、現在天正八年の時点での大和の状態を見てみると、
天正四年から筒井順慶に「任置(まかせおく)」となっていました。
私はこれを、大和の国の一職支配者は筒井順慶になった。としました。
(今は少し考え方を改めているのですが、それを今言うと話がすすまないので、後日改めて)

そして、この一職支配者がその責任の下、いろんな政策を信長から命令されます。

表を載せてあるのですが、天正五年以降の検地の実施者は、大体一職支配者です。

そこで、この天正八年の大和を見てみると、
城割に関しては、筒井順慶は命令され、責任者となっています。
しかし、指出検地の方は、信長から奉行が任命されています。二人も。
惟任(明智光秀)は、近畿方面を軍事的に統率していた感があるので、まだ分かるとしても、滝川一益という、ここまで大和では縁の薄かった一軍団長である有力武将が赴いているのです。
しかも当時の滝川一益は、拡大する信長の戦線最前線、関東方面への取次ぎとしても活躍を始める頃です。

これは、見逃せません。
城割と、指出検地の担当者の違い。なぜ、指出を筒井順慶に任せなかったのか?
二つの政策は関連しながらも、異質のものであるのではなかろうか?

そのでは大和の歴史を理解する事によって、その背景が見えてくるのです。
二節では大和の歴史を語っています(これがまた難しい、本文中ではずいぶん歴史認識が間違っているトコもあります)。
posted by taigon at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月12日

政策の内容と過去の研究

松尾先生が書かれたところのポイントは、卒論の第一章一節に載せてあるので、ざっと目を通してみてください。
専門家じゃないとちょっと難しいです。私にもさっぱりです(汗)。

私の卒論では、この松尾論文の紹介は、
過去の研究史の紹介と、そのあらかたの内容を把握するための一石二鳥の役割をしています。

松尾さんは、脇田修さんとおっしゃる、織田政権論では著名な先生の論文を再評価する形で進められているのでとてもいいのです。

で、松尾論文にはどういうことが書いてあるかといいますと、
(簡単に書くのはとても難しいですが、卒論のかんたん編が終わったらまた、改めて検討していきますので、今はさらっと流しておいてください)。

天正八年という年が織田政権にとって画期の年となったのは、多くの研究者間で認識されている。
(以前に書きましたが、それは本願寺との戦いが終わって、いよいよ畿内での支配体制を確立する段取りが整ったからです。)

その年に大和で行われた「城割」と「指出」は、どちらも一国規模で、しかも時を同じくして連携しながら行われている。
これを研究するのは大事だ。

「指出」は、信長が寺社や国人に対して、「お前たちが支配する土地について詳しく教えなさい。その方法は、こちらが用意した書き方に沿って纏めなさい。一日でも早く完成させなさい」というものである。

ここで、大事なのは、

一、「織田政権側が用意した書き方を厳守する事」という点です。
自由でないわけです。大和の国中の土地支配の状態を、同時期に一括して一つの方法で書き出させるわけです。

二、その書きあがった内容が、信長に簡単に承認されたと言う事です。しかも、その内容は、昔からの荘園制そのもので、信長から「荘園を至急に解体しなさい!」という命令が無かった点です。

この事実から、脇田さんは、織田政権は、比叡山を焼き討ちしたりして大変な革新者と言われるけれど、織田政権での画期の年に行った、この大和指出は、豊臣政権の太閤検地と比べると、どちらかと言えば戦国大名的な方法だったので、近世的な土地支配は豊臣政権からといえる。
とおっしゃったわけです。

しかし、松尾さんは大和一国規模で行われているのが凄いんだ。しかも、その前に大和の国の城を全部破却してるじゃないか。
それは、本願寺戦が終わり、新しい大和国軍を筒井順慶の元、今後更なる強固な軍団としてどんな軍役にも耐えれるようにするための政策だったんだ!

とおっしゃっているわけです。

お二方の主張は、土地支配(言い換えれば百姓支配)と軍団支配という、すこしずれた争点になっていますが、私の論文にこの争点事態はそれほど大きな問題ではありませんでした。
先ほども言いましたとおり、「指出」と「城割」がどういう性格の政策で、過去にどんな研究がされていたんだろう、というところが分かっていただければOKです。



余談ですが、
ところで、始め私は、脇田さんの著書を読み漁ったんですが、中世土地制度も戦国大名論もろくに知らないので(むしろ何にも知らなかった)、単語一つから分かりません(今もあんまり変わりません)。そのうち、松尾先生の論文に出会って、すっきりと纏めてくださっていたので、それを自分の卒論にそのまま引用したのでした(卑怯者)。


とまあ、過去の先生方の研究は素晴らしいものなんですが、私は一つの疑問点を抱いたのでした。

つづく。
posted by taigon at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月11日

滝川一益と明智光秀がくる

さて、とりあえず、天正八年八月以降に信長は大和に何をしたのか書きます。

まず、8月2日、本願寺が退去したことを見届けた信長は、京において、筒井順慶に河内・和泉(どちらも現在の大阪府)と大和一国の全ての城郭破却を命じます。
命じられたのは筒井順慶です。よく覚えて置いてくださいね。

16日には順慶はその本拠筒井城に帰り、翌日より自分のお城を取り壊します。筒井城下は大騒動だったようです。
命令されてから筒井に戻るのに二週間ほどあるので、それまでに、大和各地に取り壊しの命令に出向いてたのかもしれません。
早くも20日には、国中の破却が済んで、もはや郡山しか残ってない、という状態であったようです。

続いて、一ヶ月ほど経った、9月25日、信長に命令された滝川一益と、惟任光秀(本能寺で信長を殺す明智光秀です)がやってきます。

何をしにきたかといいますと、大和の土地情報を調べに来たのです。
私が、何度も「大和指出」と呼んでいる、「指出検地」のことで、詳しくは後日書きますが、ようは、大和中の田畑屋敷の土地台帳を、所有者(支配者など)がきちんと整理し書き出して、織田政権に提出せよ、と命令に来たわけです(ところで、学校で習う太閤検地とは方法が全然違うのでご注意ください)。

出来上がったのが、およそ一ヵ月後の10月23日だったと言います。
その間、一益と光秀は、奈良にとどまって、監督していました。
さらに、おそらく、その命令にはむかったであろう国人四名が、10月28日に滝川一益、惟任光秀、筒井順慶らによって殺されました。
11月2日まで滞在して滝川・惟任の二人は、京へ帰って行きました。

そして、11月8日信長の朱印状が届きます。

11月9日の多聞院日記です。
「昨夜安土ヨリ慥ニ注進状来、寺社領聊不可有違乱如先規ト、并順慶ニハ郡山ヘ可有入城、箸尾ハ順の与力ニナレト、国中一圓筒井存知ト七日ノ申刻ニ御朱印給云々」

この詳しい内容は、後日にするとして、つまりは、
「検地の内容は間違いなく織田政権によって安堵し保障される、また、筒井順慶は郡山に移り住むこと、大和の国は筒井順慶に任せる」
ということです。

以上が、大和で一国規模で行われた、信長の命令でした。

さて、この内容を詳しく調べられたのは、松尾良隆さんで「天正八年の大和指出と一国破城について」という論文があります。

次回はこの論文を紹介します。
posted by taigon at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月10日

信長の意図を探れ

さて、1580年(天正八年)の8月に、本願寺が大坂を退去しました。
11年にも及ぶ、本願寺との戦いは、信長にとっては、政権確立に大きな障害となっていました。

天正四年の時点で、安土城を築いていた信長には、確固たる将来の政権プランがあったと思われます。
先進的な技術、方法、アイデアに溢れた城郭。
また、発掘で明らかになった、天皇行幸を想定した、御殿の建設など。
そこには、中央集権体制の頂点として自身を置いたことが汲み取れます。
それは、あるいは天皇権力より上位のものとして自身を見ていたともとれます(詳細は、後日)。

しかし、大坂で頑張る本願寺勢力の抵抗のため、本格的に政権運営をするにしても、畿内を押さえることが必要でした。
また、信長の政権構想には、どうしても、大坂の地が必要でした。
(理由は少し以前に述べました)


さて、やっとの思いで大坂から本願寺を追い出し、いよいよ政権基盤を確固たる物にするための方策がスタートします。
(そして、二年後の天正十年にあっという間に信長は本能寺で死んでしまいます。織田政権を学ぶ上で、天正八年はとてもとても貴重な時期です。)

その手始めに行ったのが、
大和一国破城」「大和一国指出検地

そして、発言された、
「郡山一城残し」

深い意味があると思いませんか。この郡山城の立場。


さて、なぜ私は、郡山を選択したのが、信長だと思ったのか。
詳しくは二章の解説で述べますが、簡単に言えば、
順慶が、さあ郡山に入城しますよって言う日に、「信長上使来渡之了」と「多聞院日記」に書いてあったからです。
意味は、「信長からの使者が来て、筒井順慶に郡山城を渡した」ということです。

上様から部下に城を与えられております。

信長の命令により、郡山以外の大和の国の城をぜーーんぶ破壊させておいて、その上で、筒井順慶に、それでは、これからこの城を拠点に大和を治めよ、と順慶さんに与えたんですね。
やっぱり信長じゃないですか。郡山にしたのは。
(順慶が、私に大和を納めさせるなら、郡山を下さい!って叫んだかもしれませんが、その辺は二章で検証しています。)

そもそも、じゃあ、この信長が行った天正八年の政策は一体どういう過程で行われ、どんな意味があるのか。
それを勉強しない事には本当の信長の意図が分からないじゃないか。というのが、だんだん見えてきたのでした。

そこで、これを取り上げている先生が居られたのでその論文からまず勉強を進めました。

つづく
posted by taigon at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月09日

「はじめに」

かんたん編。

さて、前置きをぐだぐだと長く書いてきましたが、別ブログに本文全部を掲載したことですし、少し、スピードを上げて、本文の中身の解説に入りたいと思います(余談も多いので読みにくいですが)。
その後、また、信長論を改めて論じていきたいと思います。


さて、卒論の出だしは、

「近世城下町大和郡山の発展は、天正8年(1580)の「一国破城令」により、織田信長が大和の中心として郡山を選んだ事により始まる。そこにはどの様な理由があったのか。」

ではじまります。

この卒論で語りたいのは、「なぜ、信長は大和一国の支配をする拠点に郡山を選んだのか?」です。
その理由は、郡山という土地は、豊臣政権下では、秀吉の弟秀長が入城し、大和をはじめ紀伊和泉なども含めた「百万石の城」として、整備されます。
しかし、実は、そのほんの数年前までは、大和のほんの一小城として存在していただけのものでした(当時を生きてたわけではないので、あくまで現在残る文献から見た限りではということですが(汗))。


私は疑問に思いました。
一体誰が、大和一国の支配を担う場所として、郡山城を選んだんだろう。
その人物は、なぜ、郡山に決めたんだろう。

そこで、いろいろと調べてみましたが、そこで分かったのが、

そんな事を論じている人は誰もいない!ということでした。

唯一見つけたのが、筒井順慶(大和の有力武将)が、その本拠筒井城に近く、立地の条件も本拠より良かったので、目をつけていた。
というものでした。(郡山町史など)
で、誰が始めにそういうことを言い出したかというと、永島福太郎という、奈良研究の第一人者でした。この人は凄いです。何が凄いかは、その本を読めば分かります

へ〜と思って、さらに調べてみても、他に誰も言ってないし、
そもそも、一国の居城を作るのにそんなに簡単な理由で良いのか?と疑問も出てきました。


それなら、自分で勝手に結論付けてやれ!と思って、
これは余談ですが、ちょうどその頃、別の卒論を書いてたのですが、それを辞めて、卒業するのもやめて、こっちに乗り換えて、翌年の卒業論文の題材にして改めて勉強しなおしたのでした。(親にはこっぴどく怒られた)。
私は不良学生だったので、ほとんど史料に当たるという経験がありませんでした。また、土地制度などは苦手なほうでした。基礎もままなりません。
いずれにせよ、今から基礎勉強しても間に合わないから、論文を片っ端から読みました(語彙が分からない事だらけでした)。

それでも、どこにも答えや参考になる文章すら見つけられませんでした。
なぜなら、中世大和の研究は、荘園制や寺社の研究ばかりでしたから。
しかし、それはどうしても、避けては通れません。避けてはいけません。
でも私はあえて、避けました。だって難しいから(爆)

大和の城郭研究にはバイブルがあります。それは村田修三先生が書かれた著書類です。これまた、お城の研究などしたこと無かった私には、理解が難しい。


そこで、とりあえず、史料に当たらないと話しにならないと思って、一級史料「多聞院日記」と、『大日本史料(史料綜覧)』だけはちゃんと読もうと決めて、ひたすら年表と解説を作り続けました。

そしてわかったこと。

大和郡山城に決めたのは、織田信長で間違いない!



ということでした。つづく。。。
posted by taigon at 10:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月06日

織田政権と大和

卒論の全文を、別のブログに揚げてみました。
一度そちらをご確認ください。

但し、図表がまだアップされていませんので、中途半端です。
本文と注釈のみ、全文アップしています。
また、目次を設定してありますので、そちらから入っていただくと読みやすくなっています。

右のリンクから入れます。

また、ココからもどうぞ。
posted by taigon at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文!織田政権と大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月05日

戦国大和の研究の課題

私のブログの欠点は、話題が統一性が無い事ですね。
今日も、突然話が横にそれます。

ただ、カテゴリには沿っていますので、話題を継続的にお読みいただくには、始めに左にあるカテゴリ分類から入ってください。



では、今日の話題に入ります。
最近、いくつかの大学生や研究者向けの論文集や解説本などに目を通したのですが、そこで一つの課題を見つけました。
それは、中世史を学ぶ人なら誰でもぶつかる課題ですが、特に戦国時代の大和の研究者には避けて通れない問題があります。

それは、

中世って何?

ということです(汗)

私の昔の認識では、鎌倉幕府が開かれてから、秀吉の統一が完了するまでが中世でした。
そんなものは漠然としたもので、多くの日本人が中世の時代区分なんてどうでもいいと思っていると思います。
むしろ、戦国時代が人気があり、中世と戦国時代とどう違うの?という意見も多いと思います。


前置きはこれくらいにして、続きを読む
posted by taigon at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月03日

本願寺が信長に宣戦布告?

さて、織田信長と本願寺の戦いは、元亀元年(1570)に始まります。
ことの発端は、三好三人衆を討伐に大坂方面へ出兵しいていた織田軍に対し、本願寺が挙兵したことに始まります。

なぜ、本願寺は織田信長に突然牙を向いたのでしょうか?

現在の通説では、信長が本願寺に対し大坂石山の明け渡し要求したからと言われています。

当時は、信長は入京を果たしてしてまだ3年。
三好三人衆という、戦国の世になって、畿内地方で一時代を築いた三好家の有力武将たちが、信長の入京により畿内から追い出されて、それ以降ゲリラ的に織田軍団と戦っていました。
また、元亀元年は、姉川の合戦で浅井朝倉軍と激戦を行った直後です。

後に、荘厳華麗な天主(天守)を持つ安土城を築きますが、この本願寺のあった、大坂石山こそは、後の豊臣秀吉が巨大な城郭、大坂城を築いた土地でもあります。

京を中心に、
本拠のある岐阜や北陸方面への街道の押さえ、近江琵琶湖の交通の便に適した、安土城。
そして、西方、中国四国地方から、遠く海外との流通の押さえにも当たるのが大坂。

当時は、堺に港があり、京や奈良といった大都市の外港として栄え、その経済的繁栄は極みにありました。
この、堺を始め、大津、草津と言う貿易や港湾街道の拠点に代官を置く事を将軍に認めさせた信長。領地よりも経済軍事活動の拠点を支配する見地を有していた発想力は、山科消滅以降、本願寺が拠点としていた大坂と言う土地の繁栄ぶりに目をつけないはずが無いのでした。

この信長の経済活動、交通流通の拠点を押さえるという発想力は、私の卒論の後半部分での中心論点になります。どうぞ覚えていてください。


さて、結局本願寺時の法主顕如は、その要求をはねつけたばかりでなく、全国の門徒に、檄文のを発令、以後、11年にもわたる長い戦いが始まるのでした。
posted by taigon at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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