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2007年10月28日

瓦職人安土に参る

織田信長が、有名な安土城の普請を始めたのは、天正4年と記録されています。

この安土城の研究は最近ずいぶんと進められ、発掘調査に基づく科学的検証も行われています。

さて、表題の瓦職人とは?

安土城の築城の際、その屋根に葺く瓦を生産したのが、奈良の瓦職人であったことが、研究によりわかっています。

信長公記にも記述があり、発掘によっても明らかにされたその、瓦職人。


ルーツは、南都の大寺院のための工房でした。

そもそも、お城が大々的に瓦葺の屋根として、あの重厚な姿になったのは、信長の安土城が最初だといわれています。

寺院や役所などの中世権威が利用していた瓦屋根。
他の建物は板葺、茅葺であったのでした。

当然瓦職人自身も寺社に管理されていたのです。そして、その最高の技術者が奈良の瓦職人でした。

信長は、彼らを自らの城を築くために、その立場を解放し、我が元へと再編しようとしたのです。

その他、信長が考案したといわれる築城方法では、中世の権威が大いに利用した最高の技術を盛り沢山、自分の下へ集め、その粋を極めた新しいものを生み出そうとしたわけです。


つまり、信長自身が全く新しい何かを作り出したというよりは、
当時色々なところで、ある範囲内だけに制約されて活動していた人々や技術を、大々的に解放し、自由に利用できるようにした。

という方法が用いられているのです。

そして、当然、その一連の流れで築城された郡山城は、
大和の新たな権威、武家のシンボルとして登場してきたのでした。

中世的権威をうまく残しながら、しかし自分の下へと再編してしまう。
守られてきた伝統が新しい輝きを放ちつつ、守ってきた者どもは、その地位にあぐらを書いておれなくなってきたのでした。


さて、次回は、まとめに入っていきます。



やっとまとめまで来ましたが、途中、いくつか本文の内容を端折ったりしております。
つまりは後から、これは検証が足りない、誤解がある、という点についてはそうなっています。
また、まとめも終わりましたら、疑問点、問題点を再点検する作業を進めていきたいと思います。
これらの作業が近づいてきて、とてもわくわくしています(笑)
posted by taigon at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月21日

市場の形成

筒井順慶が在城中に郡山城下に市場があった形跡があります。


中世の寺社勢力の権力は、大和の中で、流通にも及んでいました。

自身で直接史料に当たったわけではないので、詳しく知らないのですが、
ものの本で、学んだときにこうありました。


四方を山で囲まれた大和は、海で生産される塩は遠隔地流通に頼るしかありませんでした。
これが、どのような方法で大和にもたらされたかというと、寺社に守られた流通専門の運び屋(馬借でしょう)によって、運び込まれます。
また、経営を安定させるために、大和国内に持ち込まれる塩の量を、制限していました。

つまり、搬入量が多くならないので、高値が維持できるわけですね。

(それにしても今一度このシステムをよく勉強してみたいと思います。塩は商品でしかなかったのかどうかとか、今になって疑問がでてきましたので)


大和で寺社が、流通にも目を光らせていた頃には、このようなシステムがうまく動いていたようです。

が、しかし、多聞院日記を読んでいた私は
「今年ほど塩が安い事は今までなかった」というような記事を見つけました。

天正12年のことです。既に織田信長が本能寺で斃れてから2年が過ぎていますが、大和郡山には筒井順慶が健在でした。
上の記事では、その時の郡山の市場での価格を伝えるものです。


つまり、この事実が何を物語っているかといえば、
寺社が流通の支配をしえなくなってきていることがわかります。


織田信長の登場により、大和での流通の流れが、徐々に改変されてきていた事がここに理解できると思います。


これら、流通に関わるものだけではなく、お寺に属する職人集団にも再編が進められていたことも分かっています。
それらを、次回に検証していきたいと思います。
posted by taigon at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月16日

大和郡山城「城下町形成」

信長の大和における政策第一弾として
「郡山城を残し他の城郭破却」に及んだ
第二段として
「指出検地」を一国規模で行った。

さらに、大和国人の粛清。

郡山城はもともと、ちゃんとそこに存在していたのです。
しかし、郡山の在地領主は、このとき滅ぼされます。

そしてこのたび、信長の命令により、
筒井順慶という武将に、大和一国の支配を任せるために新しく建設させる。

という手順を踏んでいます。


ここまで、みてきたとおり、奈良という都市に求心的なベクトルを有していた、大和の町。
大和ばかりでなく、奈良の寺社は近隣諸国にも巨大な荘園を有し、中世の巨大な権力でした。
また、大和国人は京の政権にも常にかかわり、南北朝の争いや、足利将軍家の派閥争いにも重要な位置を示していました。

そんな中、巨大権力として現れた織田政権。

今、新しい未来に向かっての方針を、どんと押し出されたわけです。


今日、織田政権下において、筒井順慶がどのような方針で、都市を運営したのかを知る手段を、私は持ち合わせていません。

しかし、豊臣政権下において、順慶在城中の郡山城下に市が形成され、城下町が整備されていたのではないかと推測されます。

そして、多聞院日記には、「郡山の市で塩がとにかくやすい」
という記事が何度か見かけることが出来ます。

郡山城下の市場調査に出向き、主婦のように、安いものを買い求める姿が残っているのです。

この事実が物語るものは何か、それこそ信長が目指したことではないのか。
このあたりを、次回検証していきます。
posted by taigon at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月12日

街道を押さえる2 虎屋

前回、郡山という場所が、奈良と堺を繋ぐ街道沿いであり、
史料にも、商人や軍勢が通る道であったことがわかると書きました。

信長は、山城方面との街道沿いである、多聞城は破却したまま再利用しようとしませんでした。

大和支配もまた、堺や大坂を意識した戦略であった事が伺えます。

このあたり、卒論の中では検証していませんが、この解説が一通り終わった後、しっかりと重点課題として検証したいと思います。


さて、郡山は当時、どんな都市だったのか?
という点について、検証したいと思います。

多聞院日記の中で、
「京の虎屋が郡山で勧進能を催すので、興福寺の慶事にも呼びました」
という内容の箇所があります。

天正8年2月のことです。

能について細かい解説は省きますが、
虎屋というのは、利益を目的にした、玄人肌の素人といいますか、当時とても人気のあった、興行目的のセミプロ集団でした。
かなりの実力持っていたという事です。

彼らが、郡山での興行をした。これだけでも、ある種の、都市機能があったといえます。


天正10年に信長は本能寺で斃れます。
その後、豊臣政権、江戸幕府と、政権交代が行われますが、
常に、郡山は重要な土地として扱われています。


それは、山城に伏見城、摂津に大坂城、大和に郡山城
という、畿内の流通拠点に城を配置していく一連の流れともなっています。


その壮大な都市政策は、天正8年の信長による、大和一国破城令にから始まるのです。
posted by taigon at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月06日

街道を押さえる

お久しぶりです。
今週からまた、ぼちぼちと記事を書いていきます。

基礎知識を増やすために、図書館で借りてきて、城関係、中世関係の本も読んでみています。またそちらの感想なども書けたらと思います。


さて、早速に本文の解説に戻ります。

織田信長の戦略で、街道を押さえて軍隊はもちろん、流通の支配も見込んで近世城郭を建設した事は有名です。

安土城の築城は、とても重要な意味を持っているようです。
また、本願寺に退去させて大坂を押さえたかったの大きな理由も、大坂という土地が、外港として、また東西を結ぶ拠点として、また、京都の押さえとして、などとても重要な拠点であったからだと言われています。


さて、今郡山に目を転じた時、その地理条件はどうなのでしょうか?

本文にも書いていますが、奈良から堺方面に向かう重要な街道が、郡山の真ん中を通っていたようです。
そのまま法隆寺方面へ向かって現在の国道25号線あたりを通って、抜けたのでしょうか?詳細は分からないのですが。

郡山の古地図には、堺街道というものが書かれています。
また、ある松を目印とした分岐点があり、南へ向かうと筒井にいく道もありました。


さて、奈良は堺を外港として、西日本や遠く海外からの物資が入ってきました。
木津も利用していたようですが、このころは堺の町がとても反映しておりました。

その堺と奈良を結ぶ重要な街道が郡山を通っており、ここに、新しく一国規模の城を築き、相応しい城下町を形成するという事は、奈良の町へ向かう商人が、必ずここを通るわけですから、全く新しい経済圏が生まれるということにもなるはずです。

また、西から奈良へ向かう軍勢もここを通っている事が、史料にみれます。
すると、奈良へ向かう軍勢をいち早く、抑える役目も果たすことになります。

郡山城のある地点、そこは街道上の重要な位置だったのです。
posted by taigon at 17:21| Comment(6) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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