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2007年11月27日

『中世人の経済感覚』 本郷恵子著

以前に、旦那さんの本郷和人氏の著書を読みました。
『人物を読む中世史』 かな。

なかなか面白い切り口と語り方だなと思って読みました。

今回は図書館で偶然出会った、奥様(本郷恵子氏)の著書
『中世人の経済感覚〜「お買い物」からさぐる』
という本を紹介します。

なかなか偶然で神秘的な出会いでした。
前々回の今後の課題を書いた当日に出会ったのですから。

この本を読むと、中世の人たちも、お金が必要で、金融財界政界さらには宗教が癒着して、大金が動いていたのが分かります。

お金に踊らされる人たちの姿はいつも同じなんですね。

中世とはいえ、主に鎌倉時代から室町前期のあたりの、歴史区分で言えば中世前期頃のにあたるのでしょうか。


内容は、導入で中世の市場や貨幣の基礎を資料をつかって分かりやすく説明され、歴史が分からない方にも、非常に入りやすくなっています。

前半では、中世(鎌倉〜室町初期)の人々の関心が、官位取得に熱心で、それを公家側が安売りをしていた、という事実を丹念に紹介されています。
また、武家が幕府を通して官位を購入する手続き「成功(じょうこう)」について詳細に紹介され、とても興味深く読むことが出来ます。

また、後半では、寺社と金融などの勢力、需要と供給のバランスなど難しくなりそうな話題を、平易な文章で分かりやすく表現されて、親しみを持って勉強が出来ます。

最後には、人々の得た余剰金が信仰の世界にささげられていく、一武士の姿を通して、中世の人々の心の世界にまで踏み込んでいかれています。


どの章も、分かりやすくまとまっています。
詳しい方には、少し物足りないかもしれませんが、その道に全く素人名私にはとても興味深く読むことが出来ましたし、中世という時代が、想像以上に金銭が流通し、金融が発達していた事に今更ながらに感心しました。

また、分かりにくかった当時の物の価値や、官位の取得に対する時代の移り変わりによる手続きの変更などから、政治を見れたり、施政者の横顔を見れたりします。

オススメの一冊です。






posted by taigon at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長関係書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月21日

石高と貫高〜新たな課題の展開

納税の基礎的な話ですが、

石高=米の年貢高(もしくは生産高)
貫高=貨幣による年貢高

となりますが、よく理解していないことも多いと思います。
私もその一人です。


中世、市などでの買い物が、現物取引だと思っている人も多いと思います。
しかし、歴史の教科書にあるとおり、土倉などが繁盛したのは、貨幣の流通がいきわたり、その管理に対する需要と供給の関係で発達した事があります。

ということは、中世は今と同じように、お金がものを言う時代だったわけです。

それが、なぜ、近世になって、また米による年貢となったのでしょうか。

選銭が原因ともいわれます。もう少し勉強しておきます。


そのようにして、私の本文を再確認すると、
信長が、天正八年(1580)に行った「石高」に統一して、一国の年貢高を把握した事。
また、元亀年間に松永久秀が多聞山城下の市に「市が楽のときは以前のように銭納」せよ(つまり、逆に言えば、最近は現物納になったという証になります)といったことが、理解しやすくなります

この頃、貨幣の価値が変動気味だったのかもしれません。
(勉強不足ですみません)



こうしてみてくると、天正八年の政策を検討すれば、改めて信長の大和政策を研究する課題がいろいろと見えてくると思います。

・郡山城を武士のシンボルとして建設し、大和の統治にあたらせる。
流通の研究。支配権の研究。

・郡山城に入城し、大和を与えられたのが「衆徒」筒井順慶。
信長の人材登用。大和の支配権の研究。信長の館山と政策の研究。

・比叡山を焼き討ち。大和の大寺は安堵された。
信長は戦国大名か近世的支配者か。

・寺社の対権力運動の展開。

・荘園制末期の研究。



などを課題に引き続きレポートしてきます。
posted by taigon at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月17日

貨幣流通について

本論の中身で、私が全くの無知で歴史認識を間違っているであろう表現の一つに、中世の貨幣経済があげられます。

今後しっかり基礎勉強して克服していく課題ですが、自分なりに整理してあげておきます。


信長の上洛以前の、配下の武将への禄高は、貫高で表現されていたと思います。
上洛後のいつころからか、地域によっては石高で表現される事もあったかと思います。

また、一元支配を推し進めていったという信長ですが、一方、領地が各地で飛び地支配している武将も多々あります。


貫高は、つまり貨幣での納税を意味するわけですが、貫高制については一度も勉強した事がありませんでした。

本論第二章の以下の内容について、私自身が理解していないと思われるのです。

_________________________________________


 新都市建設という行為はその存在だけで、楽市楽座令の有無に関わらず、旧権限の無効を意味するといえる。この行為は、郡山城より以前の永禄年間(1558〜1570)にすでに松永久秀によって行われていた。
 松永の政策は、多聞城を築くところから始まる。奈良への要所で奈良坂の見張れる眉間寺山に城を築いた久秀は、そこを拠点に奈良の諸政に管掌を始める。さらに永禄12年(1569)には、城下の法蓮郷に市立ての旨を奈良の町にふれた。この市は時として楽市として開かれたらしい。それは次の元亀2年(1571)の文書に見える。

  「片原山預り状  坂衆  元亀二年 十月 二十八日」(樫尾文書)
    アツカリ申カタワラヤマノコト
    (中略)
御チシハタウ子ンワ十合八斗、ラヰ子ン申ノトシヨリハ、十合壹石ツゝサタ可申候、
モシタモンイチラクノトキハ、マエノコトク壹貫六百文、十月卅日ニサ申ヘク候、

 ここでは、市が楽の時は「マエノコトク」地子の「銭」納がなされたとある。この市立てにより銭取引も行われ、それが座商以外の百姓も商売できる様がわかる。
 この市立ての令された永禄12年は、信長により撰銭令が出された直後である。その成果自体は逆に流通の混乱を招き貨幣の流通に阻害が出るなどして、米の代銭の増加が見られるのだが(78)、しかしそれでも城下や寺社が、銭獲得に動いていることは、銭取引の一般化の傾向にあったと見ていい。
 ここに座の独占権が奈良近郊においても機能しなくなってきたことがわかる。この後法蓮市がどうなったかは史料の上では知る手段を持たないが、多聞城と同じ末路を辿ったと見てよい。


______________________________________

文章表現的に正しいのかどうか。

今見直してみると、興味深い史料です。
ここでは、松永久秀が坂衆から地子をとるようですが、それを今は現物だが、もし楽市が立てば、銭納せよと書いてるわけですね。
逆に言えば、以前はどんな時でも銭納だったのが、現物になったけれど、やっぱり楽市が立てば、銭納でよろしく。とかいているわけですかね。
また、市が立てば、現金が集まったという事も理解できますし、支配者も現金を欲しがったということもわかります。



こういった史料を的確に理解できるように、基礎学力の向上に努めたいと思います。
posted by taigon at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

松雲公採集遺編類纂

こちらのブログでも、コメント頂いており早く確認したいと思っていながら、出来ていなかった資料。

「松雲公採集遺編類纂」
「歴史読本」11月号で、この資料を利用した記事が載っています。

 松雲公とは加賀藩五代藩主の前田綱紀のことで、古記録や史料を収集編纂した「秘笈叢書」がもとで、この叢書明治初期に多く散逸したので、残されたものを個人が収集再編したのが「松雲公採集遺編類纂」であるそうです。
その中の「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」というものの中に、私が題材とした年代の大和の記事が多くのっているようです。

たとえば、郡山の勧進能についてもあるようですし、コメントで教えていただいたように、明智光秀と大和についての記事もあります。これは必ず一度は見てみないといけない資料だと思いました。



http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200709150079.html
興味のある方はこちらの記事も読んでください。

posted by taigon at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月03日

最後のテーマ 新展開へ

さて最後のテーマ。
筒井順慶を大和存知にした理由。
これは、本論ではほとんど触れていません。
しかし、最後の駄目押しで紹介しておきます。

信長がはじめた、大和での政策。
しかし、検地をした上で出した結果は、「安堵」で、現状維持を確約。
そして、大和の新統治者として、改めて筒井順慶を選ぶ。

筒井順慶は、何度か紹介したとおり、中世の権威興福寺の衆人です。

信長としては、最初松永久秀に大和を支配させる予定でしたが
松永謀反の結果滅ぼしてしまったので、柴田勝家や原田直政など織田家を代表する武将に大和の国を統治させようとしました。

しかし、結局天正4年に大和は筒井存知になり、さらに天正8年に新たな政策を施した後も筒井存知でした。

天正九年のある記事に信長の身内が大和一国を欲しがったが
信長が「大和は神国にて」それはならないというふうなことになったそうです。(蓮成院記録)

おそらく、ずいぶん骨を折ったのだと思います。大和統治については。
ここらあたりも、信長の人間的で、破壊のみを好む超人ではなかったことが分かると思います。




さて
途中、何年も何ヶ月も休止があったりして、遅々としてすすまなかった当ブログも、前回で本論「織田政権と大和」については一応の解説が終わりました。

自分で振り返ってみると、大変あっさりと終わった感じがする解説でしたね。

信長は、
改革者ではなく解放者だった。
破壊志向ではなく再編志向だった。

また、近世城郭への発展過程においては
自由に拠点を構え、城館などを造ってきた戦国武将たちも、
郡山城のように、一度完全に信長のものとなった後、治めさせる武将(今回は筒井順慶)に与える(もしくは貸し与える)ような方法がとられ始める。
また、不要な城郭は破却され、一つの国に一つの城(もしくは大きな地域に一つ)の原則とともに
拠点は軍事的な重要地としてよりむしろ、物資の流れを重視した場所が選ばれた(流通拠点の支配)。

それらは、豊臣政権に大きく引き継がれていったのだろうと想像される。

などご理解頂けたら、一応の目標は達成できたと思います。

また、過去にあまり研究対象にならなかった戦国大和が実は、大変研究テーマに溢れている、ということも知っていただけたのではないでしょうか。

ここ数年、城郭研究ブームで、城跡探索などで村田修三先生のフィールドの一つ大和の山城などが人気を呼び、多くの方が戦国大和に興味をもたれているのは本当に嬉しい限りです。


さて、今後のブログ展開として、新しくカテゴリを増やし、もっと織田信長や大和、また中世戦国などの時代考証を進めていきたいと思います。

10年前に集めた手元にある資料も、ここ数年未開封です。
ブログでは、大事な表や図をアップする事もしていませんでした。

これらを一度ちゃんと整理して、紹介して行きたいと思います。

また、最近知った、実家が実は中世城郭後だったというのも含め、お城のネタなども沢山書きたいと思います。

11年前にたった半年ほどの作業で書いた卒業論文と、ここ二、三年かけて書いてきたブログ。
今後どのような広がりを自分で作っていけるか、とても楽しみです。

ぜひ、こんな情報を知っている、ここの検証の仕方はおかしい、などのご意見などありましたら、沢山コメントいただけましたら幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。
posted by taigon at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

織田信長の改革手法

さて、いよいよ最終章、本論「まとめ」の解説です。


ここでは、織田信長は中世の破壊者のか?という、よく論じられる部分に触れています。

結論から先に言えば、「破壊者ではない」ということを、遠まわしに書いています。

信長が上洛する前後からの、畿内で実施した政策のうち、大和統治について詳しく見てきたわけですが、そこには、一人の人間、一人の施政者としての、苦心が非常によく見られるのです。
大胆かつ繊細。またその逆。

とても面白いのですが、その詳細はまた次回書くとして、今回はまとめるところをまとめておきましょう。



まず、天正八年に注目して始まった本論。
信長が本能寺で倒れるのが、天正十年六月。
その二年前。長年続いた本願時との戦いに終止符がうたれ、織田政権がいよいよ本気で全国統治に乗り出そうとする年です。

真っ先にはじめたのが、大和での一国規模の全城郭破却。
さらに、ほぼ同時に行われた、一国規模の検地(指出)。
この二つの政策を詳細に調べ検証することは、織田政権研究で重要なことである。と理由付けしました。


その手がかりとして、一国破城で唯一残された「郡山城」の選択の理由を解明するのを目的に検証を始めました。


そこで判明できた事とは。


郡山城を築城した結果、国内での小競り合いをなくし、織田政権下で一団となり得る、大和での一国規模の軍団を創設しようとしました。
さらに、遠隔地流通の拠点確保として、郡山の位置に目をつけ、そこに一国規模の政治と経済の中心となる地を、作ろうとしました。

巨大な古代都市奈良。
中世にもその権威有し続け、その寺社の下では多くの特権が存在していました。
また、荘園を基盤とした実力も侮れません。

しかし、武家の中心地として新都市の郡山を作ったことは、寺社の特権、占有してきたものを、大きく解放する動きとなります。
既に安土城築城の時から、奈良の職人がその普請のために信長に借り出されていました。
当然、郡山築城にも、寺社のための工房が利用されたであろうことは想像できます(証明は出来ていません)


商人、職人に限らず、兵士さえもみな寺社に依存し管理されて存在していた大和独自性。
彼らを、天正八年の両政策で、改めて、織田政権の下に再編をしようとしたのでした。

しかし、それは信長の代名詞のような「徹底的な破壊」という形とは全く逆の、「安堵」という言葉を使った、政策でした。


大和に於いても、たしかに、いくつかの武家がつぶされています。郡山辰巳という武将もその一人です。
これらは、征服地の反乱分子をつぶしただけのことであり、中世を壊すというような思想的なことではありません。


こうしてみると、信長は、気長にしかし確実に、また的確に、政策の実行を進めその利を得ているようです。
バランス感覚に優れ、残すものは残し、しかし変えるべきは変え、遠回りのような政策が実は、驚くほどの近道として成果を挙げていく。

このような、信長の政策というクッションがあったからこそ、秀吉の太閤検地などの政策が実行しやすかったと思うのです。

信長の目標は、征服地の一元的支配です。その一元的支配のシンボルとして、その地域に城郭を建てた。といえるかもしれません。


そして、なんといっても、大和の新しい立派な城に入城したのが、興福寺衆人、筒井順慶だった。というのが、とても面白く、そして、信長研究にとても重要な意味を持っているのではないかと思うのです。

それらは次回。
posted by taigon at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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