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2008年03月31日

興福寺の立場

研究によれば、興福寺の守護職も怪しいという。

どのように怪しいかといえば、本人以外に、「大和の守護は興福寺なり!」とはあまり大きい声で言っていないから。

しかし、本人(興福寺)は大和の守護はわれわれである。
と自分自身に言い聞かせていたのは間違いないので、大和では、一応守護として成り立っていたのだろうと思う。

さて、前回、筒井順慶は、一体何者なのだろうか?と問いました。

天正4年に信長から大和の国を任せおかれた。
天正8年からは、一国を支配する城まで与えられた。
織田軍団の一人の将として各地ではたらいている。

にもかかわらず、多聞院日記を読めば、順慶を何かと興福寺の寺内のものとして扱おうとしている。



ところで、話は横道にそれますが、以前に、寺門は信長とどう関係したのかという点について。
全く、信長の支配下にいたと考えて良いと思えます。
信長の文書は見てませんが、興福寺側の記録にははっきりと「上様」と書いてる。


話は戻して、順慶と興福寺。

人は二つの組織に所属できるのである。
ということなのではないでしょうか?

おかしなたとえ話をしますが、

順慶くんは、「コウフク町」の町内会野球チーム「コウフクテンプルず」のエースで四番、しかもキャプテン。いつもみんなのまとめ役。試合の時も大活躍。英俊監督も何かと頼りにしてる。
しかし、大学を卒業して、大企業「オダコーポ」に就職。
仕事もバリバリとこなし、しかも企業の野球チームにも所属してる。
でも、最近地元にある「オダコーポコウフク支店長」に抜擢されて、町内会にも意見を言うようになってきた。でも、ここの前支店長はよそ者で、町内会でもいい思いはしてなかったから、順慶君が支店長になったときは町内会みんな喜んだ。
順慶君は「コウフクテンプルず」にも相変わらず顔を出して、キャプテンとして日曜日なんかはチームをまとめてくれる。
あるときなどは、「コウフクテンプルず」からその企業にいい選手の斡旋までしてくれるようになった。
「コウフクテンプルず」の監督は、ホクホク顔で順慶君を今も頼りにしている。
「コウフク町内会」の別当会長はいつも、順慶君が活躍してくれることを期待している。

なんて。
ちょっと分かりにくいですね。


結局、恩師とか、師匠、監督、などなんでもいいんですが、そういう人たちは、
弟子がどれほど偉くなっても、弟子なんですよね。

今や織田信長の武将として期待されている筒井順慶を、興福寺側ではいつまでも寺内の官符衆人としておきたいわけです。

外部の人間が、仕切ったのでは困るのです。
外で活躍しようと、わが町出身者が、うちの支店長に故郷で活躍するのがいいのでしょう。


つまり、どちらに転んでも、興福寺は自分で大和の支配者と思ってるし、そうありたいと願っている。
筒井順慶は、寺内のもので、今をときめく織田政権の立派な武将となって、活躍して、興福寺の権威をそれを元に上げてくれたらと思っている。

ようは、そういう発想なのでは無いでしょうか。

これらのことを理解したうえで、信長は筒井順慶に大和の一国を支配させたのでしょうか?

この信長の発想だけが、未だに完全に解決し切れません。

もしかすると、順慶に大和をゆだねるように進言した武将がいるのかもしれません!
posted by taigon at 21:23| Comment(4) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月30日

筒井順慶の立場

さて、今日はまた、前回と矛盾したことを書きます。

毎度毎度矛盾した話ばかりですみませんが、気長にお付き合いください。


さて、表題「筒井順慶の立場」とは、「織田政権と大和」本文でも何度か扱っていますが、つまり、「官符衆人」についてです。


何度か解説しましたとおり、中世大和の守護は興福寺です。
そして、他の国で言う守護代にあたるのが「官符衆人の棟梁」です。

その官符衆人は、20名が三年興福寺に常住して、治安維持などに当たるが、筒井家が棟梁となることが多かった。
順慶の父、筒井順昭も「多聞院日記」では「官符」としている。


少し話は変わりますが、前回私は、
信長は寺社に矢銭という軍資金(つまり経済的)要求を求めたのだろう。
としました。

が、果たしてその役目、全うしえたのか?と思った方はおられませんか。

つまり、寺社の荘園は、大和の国内の分においてはその多くが、一国破城によって再編され信長軍団により強固に配属されたであろう国人たちが管理していたのだから。


ここで、難しいのは、多聞院日記に見える、寺社門領と国人領を明確に分けてその石高を記しているところですが。

当時私は何の不思議にも思わなかったのですが、国人たちの指出で認められた領地に、筒井家ほか主だった者の分が無い。

私が本文で虎屋のところで引用しているように、興福寺ではまともな祭事もできていなかった。
何かに付けて、筒井など武家筋に負担を要求して、祭事などもしていた。

この複雑な構図になりたっている立場なり、金銭の流れなどが、はっきり言って私の中で咀嚼し切れていません。


ともかく、前回と今回の課題の中で、
やはり一つだけいえることは、信長は寺社と国人を解体しようともくろんでいたはずだということ。


そこで、際立つのが、
織田政権での「大和国守護(的立場)」の筒井順慶でありながら、「興福寺官符衆人」の筒井順慶である。


詳細はまた次回。
posted by taigon at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月28日

信長の収入源

織田信長の軍団の源はなんだったのでしょうか?

「織田政権と大和」で得た答えをもう一度振り返ってみます。

信長は、本願寺との戦が終わると、大和の国に二つの命令を出します。
一つは、城をすべて破壊し、郡山城一つにすること。
一つは、大和一国規模の検地(指出)を実施し、大和の米の年貢高を把握する。

どちらも、直接信長から命令がだされている。
実行者は、城割りは、筒井順慶。検地は、滝川一益、明智光秀。

どちらも、大和一国規模でされている。

どちらも、「郡山城」、「石高での書き出し」という、新しい統一規格を示している。

その結果。
意外なほどあっけなく、それぞれの所領は安堵。郡山城には、「大和の国人」筒井順慶を置く。

新しい方針の元に、旧来のもが温存されました。


信長は、何をしたかったのか?


このとき、信長にとって必要だったのは何か?大和に何を求めたのか?
というのが、ポイントでは無いでしょうか?

上洛以来、信長が大和に課してきたものといえば、大寺社に対しては、矢銭を要求しています。軍事資金です。

つまり、安定的な年貢ではなく、その時々必要な現金をとるのです。
それとは別に、大和の国人からは、実際に戦争する兵士と武器(つまり軍隊)を得ています。

ここで、注意しないといけないのは、本来、大和は寺社の荘園を背景にうまれた僧兵を中心とした、寺社の持ちたる国であるはずです。
筒井順慶などは、僧体なのです。

中世大和では、寺社と国人は、切り離せないのです。

しかし、信長は切り離そうとしたのではないでしょうか?
天正八年の政策によって。

信長が必要で求めたのは間違いなく、軍資金と、軍隊です。

つまり、信長は、従順に言うことを聞く大和からは、今は取れるものをとっておこう。という発想だったのではないでしょうか?

さらに
中世大和のように、お寺の言うことを聞く、軍隊ではなく、俺(信長)の言うことを聞く、軍隊が必要だった。在地に根ざす国人ではなく、信長の軍団としてのシンボル近世大和郡山城を作ろうとした。

寺に、兵を用意しろというのではなく、俺の部下である大和国軍。そして、俺の言うことを聞いて軍資金を提供する寺社。当面は、それでOKだったのでしょう。まだまだ戦うべき敵はいる。湯水のように、兵士と資金が必要だ。
さすがに、滅ぼしばかりいると、新しいものを構築するのに体力が必要になる。今十分に活用できる状態にあるものはとにかく、使い切る。

大和に課した政策から、そんな側面が見えます。


ただし、注意しないといけないのは、中世の大和の国人も独自に戦争していました。国外勢力が大和の国人に兵を要求する時も、興福寺を通して武士が動くわけではありません。しかし、大和の武士たちは、自分たちは神国大和の兵だという意識があったと言われています。信長は、長期的にそれを解体していこうとしていたという意図を私は見るのです。しかし、それは本能寺の変で信長が倒れたため実現しませんでした。


一つ。
大和の寺社は、信長から、命令されたのか?要求されたのか?協力を要請されたのか?
文書を一度読み直して、その形式を調べなおしてみたいと思います。
posted by taigon at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月25日

当為と実情

前回の常識と非常識の話の続きとして。

大和の中世史をコツコツと色々な本などを読んで、理解をしようとしてきましたが、なかなか理解できなかったのです。
何度も書きますが、先日本郷和人氏の王権論に触れてから、突然、スっといろんなことが分かるようになってきました。

結局、現代人が、現代の今までの常識を持ったままだと、
中世を想像すること自体がとても難しいんだということです。

わかってるつもりでわかっていなかったこと。

国があって、法律がって、それに従って組織だった社会があった。
なんてことは無い。

天皇がいて、公家がいて、武家がいて、僧侶がいて、支配する人される人がいて、それぞれ分をわきまえて生きていた。
なんてことも無い。

武士なら誰もが天下を取ろうと活動していた、下克上では誰もがのし上がろうとしていた、低い立場の者こそどんどんのしあがった、百姓は商売などしらず畑と田んぼだけ耕していた。
そんなことも無い。

そして、織田信長は徹底的に中世を破壊しつくした。
なんてことは、全く無い。

ただ、一ついえることは、誰もが武力に頼らないと、今日の命が危なかった、のは確かなようです。

まずは、ここまでの常識を覆すことが必要ですよね。

さらに、疑問。
中世、戦国と呼ばれる時代に、何をもって実力があるといえるのか?
戦国大名はなぜ、人の上にたつことができたのか?
天皇や公家や大寺社は、実質的に人の上に立てていたのか?

とか。続きを読む
posted by taigon at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月23日

常識と非常識

先日紹介した、本郷氏の『武家から王へ』

これを読んでから、頭の中が、泡だっています。


やはり、常識というのは恐ろしい話で、「定説⇒教科書⇒常識」ということが、世間では刷り込まれている事実に、驚きました。
色々な歴史サイトで、日本史を学生向けに解説されているものを読んでみましたが、その傾向は強そうです。


歴史の研究に定説を作ってはいけない。


「あったであろう事実」と「研究者が論じる定説」は、しばしばイコールで結ばれますが、これは「曖昧」という名の海の上を漂う船のごときもので、新しい風が吹けば、たちまち転覆してしまいます。

事実すら曖昧なのに、その事実であろうことにに対して、付加させる誰かの論を、あたかも事実のように定説化し、教科書に「事実と同意義」として常識化させることは、その後の歴史を学ぶための弊害になったりしないかと思います。

つまり、一方の論に対して、反対や、批判的な論も存在するという事実が、いつも忘れられる。


かといって、逆説、異説、を面白おかしく取り上げるのも、問題。
教科書じゃなくなります。


なら、どうやって歴史を勉強すれば良いか?


確たる方法は、今の私には思いつきません。

しかし、いくらか今の段階で、思うところはあります。

1、郷土にもっと興味をもたせること。
2、地元の図書館、博物館、美術館を活用すること。
3、民俗を学ぶこと
4、人物を取り上げること
5、事実を丁寧に拾い上げることを学ばせる

1と2について
日本は全国的に歴史の宝庫です。身近なところに沢山の古代から近代に関わる遺跡、文化、歴史的景観などがあると思います。
地元の公共施設は、地元でしか見れないものがあったりします。

それらの存在を、肌に感じて覚えてもらう。
将来、そこに行けば何があるというのを知っているのは、大事なことと思います。

3について。
特に、今に繋がるものと、現代になくなってしまったものを取り上げる。
最近、出産に関わる習慣を論じた著書を読んだのですが、とても興味深いものでした。
出産だけでなく、例えば、食べ物、ゴミ、衣服などの、生きていくうえで必ず今も昔も関わる習慣は、それだけで多くの歴史を学ぶ事になります。
現代でも、ゴミは行政の問題。食べ物もそう。政治も学べます。

そして、4。
歴史は人がつくります。そして、人には親しみを持ちやすいのです。

5、
地元、習慣、人に興味を持ち、歴史を自然と身につけることにより、親しみを得ます。
そして、事実を丁寧に拾い検証するという方法を通じて、本物を見つける目を養う。



なぜ、ここまで思ったかというと、やはり、王権と権門について思うところがあったから。

それらは、また後日書きます。
posted by taigon at 09:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月20日

自己紹介

〜はじめに〜
この「織田信長を考えてみる」は、私が10年以上前に書いた
「織田政権と大和」という卒業論文をを基にして、その研究したいきさつや、解説、その後発見した間違いや、新しく見つけた見解などを、信長と大和を中心に調べ、投稿しているものです。

「織田政権と大和」を読まれたい方は、右のお気に入りリンクから入っていただくか、こちらをどうぞ〜



さてさて、
当拙ブログも、中断を繰り返しながら、はや2年半ほど過ぎました。

ところで、ブログの趣旨や、また、私個人について、ほとんど分からない事と思います。ただ闇雲にやってるので。

初めから全部目を通していただいている方なら、もしかすると、私のことを詳細に知れることがあるでしょう(細かく言えば、住所年齢出身大学までならわかるでしょう)が、今日は少し、私のことを書いておいて、ブログの趣旨などもわかりやすくしてみたいと思います。


このブログの始めたきっかけは、単純に、ブログを練習しようというだけでした。

でも、折角なので、自分を表現できるものにしたいと思い、研究の備忘録にもなるだろうと、学生の頃書いた卒論を引っ張り出してきて、紹介してみました。それが一番の理由です。

次に、具体的内容は
元は、織田信長が奈良県で実行した政策についてです。
全く歴史を勉強したこと無いけれど、織田信長ぐらい知ってるという人も多いと思いったので、ブログでは、実は信長はこんな人だったんだよ、奈良県でこんな仕事もしてますよ、と分かりやすく書いてみようと思いました。

しかし、何度も紹介している通り、当の本人が、歴史の基礎学力がとても低いので、ブログでも間違いが多いことと思います。

そこで、少しブログの方向性を変えて、自分が今から改めて基礎を勉強しよう、その内容をブログで紹介していこう、となったわけです。

ですので、結局、内容は、難しい学会の話や小学生や中学生にでもわかるような物語などが入り混じってしまっています。

あくまでも、個人的な主観が入った内容となっているので、この私のブログを参照して、こういう解説されていた、と他で説明するのは、できたら控えていただけたらと思います。



キーワードでこのブログを整理してみると、

・織田信長
・中世大和

この二つが大きな基本路線としてあります。
(今にして思えば、いい卒論の題だったなって思います。「天正8年の大和の政策について」とかだったら、今こういうことをしていないかも。「織田政権と大和」だからこそ今でも、織田政権と、中世大和のことをいくらでも調べて書きたくなるような気持になるのかもしれません。)


続いて、

・歴史の勉強方法について
・中世史全般について
・城郭について

などのことを、自分なりに理解した範囲で紹介していきたいと思っています。
(但し、お城の事については、まだまだ全くの素人以前ですので、ろくに書いてません)

そして他に、

・読書感想文
・歴史散歩日記
・シンポジウム参加記録

などです。

間違いの指摘、異論の展開なども大いに期待しておりますので、遠慮せずに、どんどんご批判など、コメント頂けましたら、この上ない光栄であります。よろしくお願いします。



さて、続いて、本当の自己紹介をしたいと思いますが、
興味の無い人の目には触れないように、追記にしときます。


つづきをよんでみる・・・
posted by taigon at 20:42| Comment(7) | TrackBack(0) | ごあいさつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月17日

松永久秀の大和乱入

以前に紹介しました天理参考館の公開講座に行ってきました。

内容は、龍王山城及び、周辺の古墳の発掘の成果から、松永久秀が大和で影響力をもった、という話でした。
その松永久秀の築城に際する行為から、彼は神仏を恐れない男で多くの古代の遺物を破壊していた。と話が進み、最後は「文化財は大切にしよう」とまとめられて終わりました(笑)


得たものもありましたので、以下、少し感想を述べます。

まず、龍王山城の発掘の成果から、明らかに松永久秀による改築、拡張が認められること。
縄張りも極めて、松永久秀が大和侵攻に際して拠点とした信貴山城に似ていること。
以上のことと、前回の山川先生のご指摘、また過去の村田修三先生の論文などからも合わせて考えてみると、やはり、永禄年間の松永久秀の乱入で、大和は城郭史に関して言えば、一大変革があったことは否定できません。

私は、松永久秀の大和での業績に無関心すぎたようです。

筒井順慶と興福寺と信長の関係ばかりを追っかけていました。

考古学の世界では、大和での松永久秀の残したものは甚大であるようです。
龍王山の周辺では、多くの古墳をとりでとして利用した後があるが、それも久秀の仕事だろうと思われるということです。
最近銅鏡が大量に発掘されて有名になった黒塚古墳では、甥の金吾が柳本衆に滅ぼされたともありました。

ともかく、この辺非常に勉強不足なので、出直してきます。

ということで、今回はいい勉強になりました。

posted by taigon at 20:28| Comment(5) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月12日

発掘資料に見る大和

おそらく、私の卒論が、学科の研究誌に載せていただいてすぐだと思いますが、大和郡山市の教育委員会の山川均先生に見ていただきました。

その後、とてもご丁寧な感想と参考資料を送ってくださっていました。

直後に引越ししたために、失礼な話ですが、荷物の山にまぎれていたようです。
最近、過去に集めた資料を整理しているときに、発掘されました(汗)

中世大和研究、信長研究に役に立つ内容ですので、ここにその一部を掲載します。
2001年当時の内容でもありますので、そこを踏まえてお読みください。

大和の天正年間における代表的な発掘資料は、一昨年(1999)発掘調査が行われた橿原市今井町二重濠出土資料だと思います。ここでは、天正3年の信長と(本願寺との)和睦時、もしくは同8年の一国破城の際のものと思われる一括資料が大量に出土しています。
ただし、その他の発掘資料は天正年間のものはあまり多くなく、大和の環濠集落や城郭の廃絶年代は松永久秀が大和に乱入した永禄年間か、ずっと遅れて徳川政権が確立した元和年間の発掘による一括資料が多く認められています。つまり、発掘資料による限り、画期はむしろこの二つの時期ということになるでしょう。ただ、藤澤典彦氏によれば、奈良町の石造物を検討すると、天正年間に大きな画期が認められるそうです。


以上です。興味が湧きませんか?
少し解説しますと、この橿原市今井町というのは、現在も古い町並みが残される観光地ともなっていますが、その始まりは、一向宗の門前町です。町を濠で囲み成長しました。
この手紙にも載っています発掘調査の資料も一緒に送ってくださっていましたが、二重の環濠跡が見つかり、さらに、天正年間に一度意図的に埋められた後も見つかっています。
埋められたのが調査の結果16世紀後半ごろだと断定できるので、おそらく、1580年前後である、本願寺が織田信長と和睦した天正3年か、このブログの主題でもある天正8年の一国破城による埋め立てか、ということに仮定されるわけです。

いずれにせよ、織田政権とのかかわりで、濠は埋め立てられたといえます。
また、発掘成果では、埋められて直後に改めて一重の濠が掘られています。土居などもあわせて作られ、新しい町を形成している過程が見られています。

天正8年の信長の命令は、
―破却内容は「作事」面にとどまり「普請」面にまでは及ばない―
というのが、あります。つまり、建物を壊すが、濠は埋めないということになろうかと思います。


さて、ここでいくつか分かることがあります。
・山川先生の手紙にある、「実は天正年間の資料は少ない」という点。
・信長の命令が「「作事」面にとどまり「普請」面にまでは及ばない」という点。
それぞれをあわせ考えると、まず、今井町の堀の埋め立ては、天正3年だったと思われる。
次に、天正8年の破却では、筒井順慶が責任者となって行われている点も踏まえ、
おそらく、敵殲滅のような荒々しい破却行為ではなく、日常生活に支障の出るような破壊行為や生活などに必要なものまで破壊するという面はなかった。
つまり、土塀や櫓は撤去されたとしても、生活空間は維持された。と考えられます(だから遺物などが出にくい)。

このように見てみると、信長の意図が少し分かると思います。

信長としては、本願寺との戦が終わり、畿内での勢力図が新しくなるのに合わせ、
まず大和では国内での小競り合いをなくし、筒井順慶の元に一つの軍団であることを認識させるために、小競り合いを想定した形の多い大和の城館を無用のものとし、大和一国の政庁と本拠を構えるべく、郡山に近世城郭を普請した。

これは、過去に伊勢や河内などで行った破却とは意味が違います。伊勢などでは明らかに敵殲滅のための破却であったと言われています。また、摂津や河内には、信長自身が、対本願寺戦用の付け城を大量に築いています。これらも、無用となるので、破却しているのではないでしょうか。
それに比べて、大和では、「厳重の急」をもって実行はされたとしても、殲滅状態ではない。
それは大和の国人である筒井氏に国を任せ、大和の国人たちで編成された軍団を作るのが前提だったから。
とことん破壊されてしまうと、新軍団どころじゃありませんから。地元からは引き離そうとはしたかもしれませんが。

と結論付けられます。


さて、2001年以降の中世遺跡の発掘状況はどうなっているのでしょうか。今後はそのあたりを調べてみたいと思います。
posted by taigon at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

信長の教養

前回紹介しました、本郷氏の『武士から王へ』は私にいろいろと新しい想像力を与えてくれました。

直接信長に関するところなどはほとんどありませんでしたが、「国家」「王権」という考え方は、中世を考える時にポイントになります。

天皇の権威についても、以前より興味があるので、脇田晴子氏や、網野善彦氏の著書なども、少しですが読んでいました。
また、もともと、鎌倉前後には疎かったのですが、本郷和人氏をはじめ、奥さんの本郷恵子氏などの著書に触れることで、中世前期についても少しですが、知識を得ました。


そこで、考えることですが、
例えばものの本を読めば、「信長が源頼朝に倣って」とか、つまり信長が先例にならって物を進めたりする、ということも載っています。


ふと思ったことですが、そもそも、信長の教養はどこによっているのだろうか?

ということです。


例えば、以前にも書きましたが、先例に倣って切り取った「蘭奢待(らんじゃたい)」。
例えば、右近衛大将から辞任後、将軍になった頼朝に倣ったとか。
政権交代思想から、足利源氏の次に平姓を名乗ったとか。


これらの思想教養は、当時の武士なら誰もが有していたことなのか。
信長が、上洛後に身につけたりしたものなのか。など。

教養人の文人家臣も多かったので、その助言を聞いてもいたのか。など。


このブログでも紹介している、「大和ハ神国ニテ」の言葉についても少し思うところを。

その後の言葉は「国人」に任せると続くのです。
またいずれ詳細に検証したいと思っているのですが、信長は、上洛前から松永久秀と連絡を取り合い、久秀に大和を任せるつもりでした。
その後も、塙直政などの家臣を大和に配属します。しかし、最終的に筒井順慶に落ち着いた。
その直後の言葉が上の内容であるとすると、信長は、実際に畿内の情勢に触れる事によって、それらの知識を学び身につけたとも考えられるわけです。

そうであるとするならば、
あくまでも想像を逞しくしての仮定ですが、信長の政策や人事は、常に自らに身につけた最新の知識と教養に基づいて、常に修正が加えられ、たとえ大きく斬新な政権の構想があったとしても、その時々のもっとも重要視される事項以外は、先例や慣例にのっとって、無難な道を選ぶことも多かったのではないか。

と思われます。

さらに、付け加えて言うと、
詳細な統計をとって調べたわけではないので、これが正しいとはいいませんが、勝手な想像では

「敵か味方か」で、さらにその政策の方向性は決められているのではないか。思われます。

たとえ中世的だったり古いしきたりだったとしても、改革の急を要しない場合、さらに敵では無いと判断した場合、「安堵」したりするんではないか。

大和対策では、始めに松永久秀を味方にしたので、大和の主な在地の国人は信長の敵になりましたが、その後、信長の配下となり献身的に信長に尽くすわけで、たとえ興福寺を始め大和が巨大な中世的勢力といえども、表立って反抗した叡山や本願寺とは根本的に違います。


それらを踏まえて、体験的にまた、教養として新しく身につけた「大和は神国」という言葉を使って、天正八年の筒井存知を実現させたのではないだろうか。と思って見ました。


今日はあくまでも思いつきの内容でした。
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2008年03月07日

『武士から王へ』本郷和人著

本郷和人著『武士から王へ』

図書館で借りて読みました。
まだ、出たばっかりの新しい本です。

副題は「お上の物語」

日本の国家と王権について論じていますが、中世史入門書にもってこいです。
オススメ。一般読者をきっちりと意識して、解説を怠っていないのが○。


キーワードは「当為と実情」「統治」など。

30節あるのですが、学校の授業で、一節一時間でやれば、かなり日本中世史についてマスターできるんでは無いでしょうか。

一般論から見れば、批判される内容もとても多いし、極端な論じ方もされているので、これが正解!という授業では問題ありになってしまいます。

しかし、先ほども書きましたが、一般向けに丁寧に解説されているので、中高生の歴史好きな皆さんは是非手にとって読んでみてください。

中世史研究の偉人の名前もバンバン出てきますし、とても分かりやすくそれらの研究内容も解説されていますので、理解が早まると思います。

かくいう私も、この本で、やっと「そうだったのか」と思ったところが沢山ありました。

そして、前回にも書きました、私の意見。
全くそっくりそのまま、あとがきにのっていたので、驚きました。
歴史はストーリーで理解すればいい。

学生ばかりでなく、中学高校の歴史の先生。是非ご一読を!




アマゾンへのリンクです。興味のある方はどうぞ!

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2008年03月06日

歴史の勉強方法3

またまた短期集中連載ぽくなってきました。

第三回目
今回は原点に戻って、中高生の皆さんが、どうすれば歴史を理解できるのか、について。

今、高校一年生がうちに来てるのですが、今日は世界史のテスト。
夕べ、「世界史の勉強方法教えて」って言われて、「物語(ストーリー)を頭に描けばいいよ」と伝えました。

その後、部屋を覗きにいくと、そこには学校でもらったプリントを暗記する姿が。どれどれとそのプリントに目をやると、もうそれだけでくらくらしてしまう。

ただただ、年表と文章に虫食いがあるだけ。
ひたすら、カタカナを暗記するためのプリント。

なんだこりゃ。

「物語なんてできないよ」って言われてしまい、そりゃそうだ、と言いたくなりました。


私は恵まれていたようです。
高校の世界史の先生も日本史の先生も、まず、ストーリーから入ります。
古代ローマなら映画「スパルタカス」や「十戒」をみせてくれます。
そこに映し出される、衣装やセリフから、文化や思想を教えてくれます。んでもって、教科書のこのあたりのことだと教えてくれるのです。

人は、単語だけで物事を想像することは、苦手なのでしょう。得て不得手もあります。
しかし、実体験や目で見たことは、そのままの姿でつまり「イメージ」として記憶されます。
また、仮に文章からとしても、単語の羅列や解説ではなく、物語だとイメージができやすくなるはずです。


教師は一言、「映画や物語はあくまでも想像の世界だけれど」と付け加えておけばいいだけのことです。

「好きこそものの」なんとやらです。

暗記力のある人のための、暗記力を鍛えるための歴史テスト。だと、結局、大人になって歴史を継続的に学ぶ人は、ゲームや小説から入った人が多数になると思います。

それはそれでかまいませんが、
学校の授業でこそ、歴史を好きになり、歴史を学ぶ大切さを知り、「教養としての歴史」を身につける若い人が、もっと増えてもらいたいものです。

歴史を学ぶと本当は「暗記力」だけでなく、「想像力」「創作力」「分析力」「実証する力」などの能力を鍛える事にもなり、また
「過去に学び、今を知り、未来を予測する」力も育つでしょう。
そして、教養として「文化に親しみ」「文化を守り」「文化を生み出す」人にもなりえましょう。
また、歴史とは、戦争という現実に必ず出会います。そこで「平和」に対する心も生まれるでしょう。


テストで暗記するのは、目的ではなく、将来歴史書を読むための一つの力を養うための方法であるはずです。
数学や、理科、国語、なども、それは目的ではないはずです。


昨日、そう思いながら、寝る前に読書をしていると、全く同じセリフにでありました。
次回は、その本を紹介します。
posted by taigon at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月05日

歴史の勉強方法2

前回の続き。

一人の著者の本を、一時期に沢山読んでみる。

これとは別に、一つの事象について、できるだけ沢山の人の意見を調べてみる。
これもまた試してみて欲しい方法です。

むしろ、必ずしてもらいたいことです。

歴史の楽しさは、「これが正解」というものがないことです。
誰がどんな理論をたてようと、全てが想像でしかありません。

自由です。

そのため、一つの事件に対して、千差万別の意見がでるのは当たり前です。


一人の意見に傾倒してしまうと、頭が固くなります。
特に、若い時、最初に出合った説から、なかなか抜け出せなくなるのもまた人です。それでは、思考の範囲を狭めてしまいます。
ですので、できるだけ多くの人の意見に注目するのは必要です。

前回の内容と矛盾しますが、つまり、どちらの方法も是非試してみて欲しいということです。

すると、見えてくるものがあります。

一人を追う事により、一人の研究者の歴史。思考の構築の過程。
一つの事象を追う事により、多角的な研究方法。

自分という研究者を作っていく過程で、この一人を追ってみる、一つを追ってみる、という二つの行為を一度はためしてみると、自分の研究方法が見つかる可能性があります。

という話でした。
posted by taigon at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月04日

歴史の勉強方法

ここで言う勉強とは、当然、テスト勉強ではなく知識としての歴史を学ぶ方法。

以前に、「卒業論文を書いてみよう」と題して(カテゴリでは卒論ができるまで)色々と書きましたが、今日はもう少し簡単に思うところを書いてみます。

東大やら京大やらの研究者ならいざ知らず、一般人がそう頻繁に文書などには出会えません。
それでも、歴史を勉強するのに、ただひたすら他人の書物を読むだけでは、物足りません。

誰もが、小説の舞台に立ってみたいと思い、実際に使った武具を見てみたくなり、そして手紙や史料に触れたいと思うはずです。

そうなれれば、今なら、ネットで博物館だとか図書館のサイトから展示や所蔵の物を探す事ができます。


ところで、私なりの勉強の方法が一つあります。

それは、とりあえずただ一人研究者の著書を、とことん読んでみる。という方法です。
論文でもいいですが、入門用や一般向け、もしくは児童向けの方がとっつきやすいでしょう。

これは、やってみれば気がつくと思いますが、この研究者が使うこの史料というのが、あるのです。もしくは、この研究者が扱うこの事件とか。

一般向けであればなおその傾向は強まります。

論文の場合、論文という性格上、一度詳細に扱った史料で、再び論文を書いたりすることは少ないのですが、一般向けの著書をかかれるような方は、特に自分の中で研究の基礎になったような史料を分かりやすく解説しています。

そうすると、どのような効果があるかというと、無理なく本物の史料に触れることができるのです(厳密には本物では、本物ではありませんが)。


しかし、注意すべき点があります。
それは、傾倒してしまう恐れがあるということです。特に若く、史料にあまり触れたことのない方は、その著者の意見が、「全て正しいもの」として、その後認識されてしまう恐れがあるということです。

ですので、「一つの史料の読み方」として、自分の知識にいれるようにしてください。


こうして知識として入った史料が、その後勉強していく中で、何かの拍子で突然出会うことがあります。そのときに、何か妙に懐かしかったり、しったかぶったりしてしまう自分に出会うことでしょう。

これは、前にあの人がよく使っていた史料だ。と思い出せるわけです。
そして、新たに別の切り口で利用されていることを知り、史料活用の深み出るわけです。

場合によっては、派閥を見つけたりします。

知らず知らずのうちに、自身も偏った知識になっている場合もあります。
それはそれで、いいのだと思います。
苦痛にならずに、素直に理解できる人の意見を、自分なりに咀嚼して身に着けていけている証拠ですから。

そういう意味でも、同じ人の著書を一時に何冊も読んでみるという勉強方法は良いと思います。

posted by taigon at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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