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2008年04月12日

戦国大和のキーワード

中世大和の、画期となった様々な出来事を、キーワードと略解説としてまとめてみたので、参考にしてください。

永享の乱
1429年〜
これにより、興福寺の権威に束縛されていた大和国人がより独自な活動を活発化する。
南北朝の対立の後始末、幕府(足利義教)の大和介入。などもキーワード。
幕府方の尖兵となった筒井党と南朝方のとりでとなった越智党の戦い。


畠山氏の党争と応仁の乱
1440年代、筒井氏に内紛が起こり、大和の情勢も不安定になってきたなか、1400年代後半になると近隣の勢力争いの影響をうけて、大和国内の国人衆も、河内や京で起きる党争の、それぞれの派閥に分かれて戦います。
いわゆる、越智党、筒井党などの勢力争いが激化する頃です。


外部勢力の侵入と大和国人一揆
応仁の乱が落ち着くと、京の勢力は、大和での実権を握ることを狙って、たびたび侵入してくる。
それが、赤沢朝経であり、柳本賢治木沢長政らである。
過去には幕府方の大和支配の先方だった筒井氏も、外部勢力侵入により、各党と手を結ぶ事になり、大和国人一揆と呼ばれる体制がなる。
国人一揆は、協力して大和国外の勢力と戦い、大和をなんとか死守する。
これが15世紀(1400年代)末から16世紀前半の大和の動きです。


筒井順昭の大和統一と死
河内の勢力の力をかりて、筒井順昭が大和をほぼ統一したのが、16世紀中ごろ。
しかし、20才代にしてこの世を去り、幼い藤勝(順慶)が家督を継ぐが、10年後に松永久秀の大和乱入にあう。
ところで、この順昭の死に際しての逸話が、元の木阿弥。
さらに余談ではありますが、この元の木阿弥の逸話が司馬遼太郎の短編小説にでてきます。
『最後の伊賀者』に収録されている、「伊賀者」です。
あまり正しい歴史考証はされていませんが、司馬遼なので、十分楽しめます。
他に、『果心居士の幻術』も筒井家がでてます。興味のある方はどうぞ。

松永久秀の登場
永禄2年、いよいよ松永久秀が大和の支配に乗り出します。
このとき、大和国人一揆はうまく機能せず、久秀はあっという間に奈良の支配を現実にします。
奈良とは、現在の奈良県のことではなく、興福寺東大寺などの門前町として発達した大和の政治経済の中心地、現在の奈良市東部。
つまり、大和一国を現在日本に例えると、奈良の実権を握るとは東京都庁を征服した感じでしょうか。(国会議事堂まではいかないかな?)


辰市の合戦
その後、信長の登場により、松永久秀は始めその力を借りて大和をほぼ完全に手中に治めますが、大和国人のゲリラ的反抗にあい、また、三好三人衆などの反松永勢力とも手を組んで、争いは続きます。
そして、元亀2(1571)年辰市の合戦において、大和国人衆は松永久秀を大いに破った大和勢は、その頃信長に反抗していた松永方の首を信長に送り、織田政権の配下として生き残る道を歩むのでした。

この辺りのことは、過去のブログで沢山書いてきましたね。

今日はここまでです。
posted by taigon at 16:00| Comment(3) | TrackBack(15) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月09日

戦国時代の終結 中世から近世への移行

さて、ここ数回は、大和や興福寺について中世から近世への過渡期を扱う研究論文などを紹介してきました。

次回に、一度、中世後半の大和について、キーワードをつかって分かりやすいように整理する予定ですが、今回はその前に大和の過渡期のについて、自分なりの解釈を少し書いておきます。

このブログを書きながら、過去に集めた資料や、新しく著書やネットで得た知識から、私は、やはり永禄年間の松永久秀の乱入と、天正13年の豊臣秀長入部をもっと研究する必要があると痛感しました。

天正8年(1580)に大和で行われた、織田政権による破城と指出検地は、織田政権の研究にとっては欠かせないものです。また、大和にとっても新しい政治体制がスタートした画期となっており、非常に大事な年です。

しかし、その成果を見ないまま、信長が倒れてしまい、にも関わらず、筒井順慶がその後も大和を統治していたという結果となり、どこまでが信長の意思による政策だったのか分かりにくくなっています。
織田政権研究からみた研究の限界がここにあります。


そこで、必要になるのは、大和の中世から近世への移行という研究です。


その意味でまず必要になるのが、永禄2年から大和に侵攻し、信貴山、多聞山と、二つの拠点をもち、大和を統治下におこうとした松永久秀の政策実態がまず、解明するべき一つ目の課題です。

次に、天正13年の豊臣秀長の行った政策実態の解明です。

豊臣秀長の研究は、近世の研究として比較的進んでいるように感じます。

しかし、松永久秀の研究はそれほど進んでいるとはいえないのではないかと思います。

また、永禄年間から、天正末期までを統括的にみた研究もあるのだろうか?という感じです。一歩進んで、江戸幕府に至るまでの研究。


そこで私は今後取り組もうと思う、明確な二つの課題を上げます。

一、松永久秀。
松永久秀の、大和乱入は、彼の単独行動なのか?
信長上洛以前の大和での行動は、具体的にどのようなものだったのか?

そして、今ひとつ。
多聞院英俊。
天文から文禄という、中世から近世の移行期に大和で多くの情報を得続け、記録を続けてきた彼個人の、人物をとりあげた研究は必ず役に立つものだと思うのです。


直ちにこのブログでその成果を掲載できるかどうか分かりませんが、情報だけは求め続ける予定です。


そして、これは歴史の研究という大きなテーマにとっての課題ですが、
やはり、当時生きていた、民衆側からの実態も調べ続けたいと思っています。


これらから、大和にもあった戦国時代。
そして、中世から近世への過渡期という、混沌を探りたいと思います。
posted by taigon at 09:13| Comment(2) | TrackBack(1) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

中世興福寺終焉期の研究

今回から、興福寺の終焉を扱った論文をいくつか紹介します。

最近は、卒論を書いた頃にとった論文などのコピーを読み直しています。

前回紹介したものの他に、

「16世紀後半の奈良における貨幣流通-多聞院日記にみる支払手段の変化をめぐって-」浦長瀬隆

「興福寺の「枡の体系」と京枡使用令の構図」河野昭昌

「近世興福寺領覚書、内部構成と支配倫理の特質」幡鎌一弘

「戦国期大和の権力と在地構造―興福寺荘園支配の崩壊過程―」安国陽子(と思うのですが、コピーなので題が無いのです。すみません。)


を読みました。

今日はまず、浦長瀬隆氏の論から。

これは、簡単に言うと、
多聞院日記の購買記録の支払方法を、永禄8年(1565)から文禄5年(1596)までの時期を一覧して、その特性を求めているもの。
結論は、
支払方法が、4期に分けられ、T期は永禄8年から永禄11年。U期が永禄12年から天正14年、V期が天正15年から文禄元年。W期が文禄2年から文禄5年。となっています。
そして、T期が銭取引中心、U期が元亀2年以外、米取引中心、V期が銭の取引中心、W期が再び米になる。

となっています。

さて
これを、見て、近世大和研究されている方なら、一目瞭然。
永禄11年は、信長の上洛。
天正14年は、前年に豊臣秀長の大和郡山入部。があります。

ところで、普通、このT期からU期への銭から米に取引が変化した理由を「信長の選銭令」にもとめられることは、私の卒論にも書いています。

さらに、「興福寺の「枡の体系」と京枡使用令の構図」という論文を読むと、次のU期からV期への移行期も理解が深まります。

興福寺は米を計る枡を、使い分けて、その差益を生み出すという技をもっていました。
すなわち、徴収する時は大きい枡を、出て行く米には小さい枡を、と。
例えば、同じ一枡でも、入るときより出て行く量が少ないので、手元に残るわけです。なんと意地汚い。

しかし、その私枡の使用が、天正14年に豊臣秀長によって停止され「京枡」の使用に統一変更するよう、大和で令せられます。
これは、この方の研究では、奈良の経済を弱めるための政策だとされています。
その理由は「売買枡」の私枡の使用禁止が言われているからです。

となると、先の天正14年より、急激に、銭取引が増えることと関係がありそうではないでしょうか?


さらに、安国氏の研究については、色々思うところがあるので、また次回としますが、天正8年の指出、破城の両政策が、興福寺支配の直ちに否定には繋がらず、天正13年の秀長入部を待たなければならなかったということです。

こうしてみてくると、寺社の経済活動や政治活動は信長の上洛後、完全に織豊政権の政策の影響をもろに受けているのが分かります。


実際の、中世興福寺の終焉は、天正13年の筒井氏の伊賀転封、秀長大和入部と言える。というのが、大方の意見であり、また後日、安国氏の研究などについても述べます。

中途半端ですが、今日のところはここまで。
posted by taigon at 20:18| Comment(3) | TrackBack(1) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月02日

織田信長の対寺社政策

織田政権の寺社に対する政策の基本姿勢について。

2000年の『史林』に朴秀哲氏が発表された論文
「織田政権における寺社支配の構造」がとても分かりやすく読みました。


信長の対寺社政策を、年代的に整理し統計、その方向性を見出すことを目的としておられます。

元亀二年、天正三年、天正八年、天正十年に、それぞれ変化があることを認められ、特に、天正三年と、天正十年は、大きな画期となったとされています。

つまり、天正三年は、天正元年に将軍足利義昭を追放し、いよいよ織田政権としての信長路線が始まったとき。
天正十年は、天正八年に本願寺戦が終結し、巨大な敵対自社勢力が激減したとき。

上洛以前また、上洛後も、信長は基本的に、寺社保護政策をしている。
しかし、信長と義昭の仲が悪化し始めた元亀年間、敵対する寺社を弾圧、味方する寺社を保護する。その典型が叡山焼き討ち。
この路線は、宗派など関わらず徹底され、寺社それぞれ個別に、敵か味方かで対策が決まる。
また、保護した相手には、礼銭を要求した。これは従来の慣例でもある。
そして、寺社の持つ兵力も期待し軍事的忠節を求めた。

しかし天正三年以降は、徹底的弾圧が激減する。
また、個別の対策ではなく、一地域における一括的保護などが見られる。
それでも、敵は弾圧、味方は保護。の路線は最後まで変わらなかった。

天正八年、本願寺屈服後は、寺社の軍事的忠節の要求がなくなる。

天正十年に至り信州で、取次銭の禁止、礼銭免除の政策になる。



大体以上なのですが。
あまり大和のことは出てきません。

ただし、路線通りなのは間違いないと思います。

注目すべきは、織田政権の方針では天正八年以降は、礼銭つまり、金銭的要求がなくなること。

つまり、私の寺社には、矢銭を要求したという論は成り立たない。

・・・


ところで天正八年以降の軍事的要求も減るという点について。
大和の国人のことを、興福寺は寺門の内のものと見ていたが、信長はそうは見ていない。

ここから文章的な表現が難しいのですが、少し思うところを書いておきます。

叡山の焼き討ち。本願寺の徹底殲滅。
彼ら、殺戮された面々は、別に上層部の僧だけでなく、前面に立つ、武装した兵がいたわけです。
彼らは悪僧として、なで斬りにされた。
また、逆に、味方についた寺社からの武力も、上層部の僧が出陣などしない。

となると。
「大和での寺社に要求する兵力とは、取りも直さず、衆人になる」

と言ってもいいのでしょうか?それともこの発想は、間違いになるのかな?


軍事的要求をしなくなったのではなく、
寺社が動かしうる兵たちが、寺社の後ろ盾を持つ兵でなく、武家として独立し、信長の兵となってしまった。

というのが正解では無いでしょうか?
大和での天正八年の政策がそれを物語っている。

となると、寺社はその経済基盤となる所領は安堵されたように見えるけれども、以前にも書いたとおり、それを(実利的にはそうでなくても観念的には)管理させていた武士を、兵力ごと経済基盤も信長にもっていかれ骨抜きにされために、寺社には金銭、武力とも要求する必要性がなくなった。

と結論付けてみました。

いかがでしょうか?

そして、天正十三年の豊臣秀長が大和にやってきて、大和在地の国人たちが移封されてしまった結果は、既に信長が見越していたとも考えられます。
posted by taigon at 11:35| Comment(4) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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