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2008年10月29日

『信長は本当に天才だったのか』

工藤健策著
『信長は本当に天才だったのか』

という、本を何とはなしに、話のネタに図書館で借りてみました。

まだ一章を読んだだけですが、全く私には必要ないなって思ってしまいました。

しかし、最近の私の興味は、
世間の人が信長についてどんな常識を持っていて、どんな信長本が世の中にあるのだろう、ということなので、今のところどんなものでも読んでいこうとしています。

また、意外とすんなりと読める文章なので、すいすいと読んでいます。


とりあえず、一章を読んでの感想は、著者に一言言いたくなったのが、
あなたが、これだけ、信長を叩く根拠はなに?
時々出す、参考著書の偏りは何?
そもそも、批判する元の資料は何?

という、なんとも、ありきたりな情けない感想です。

いわゆる、著者の想像が多くを占めている本ですね(一章だけだと)。

一章は桶狭間の戦いについて、信長が勝てたのは、雨による運。と言い切りまして、「後世の物語作者が奇襲と潤色しそれが現代まで続いたと思われる」とまとめてしまいました。

ならば、その潤色した作者を探してこいつが犯人だ、ともってくれば、一研究者として、雑学的に面白い!となるんですが、「と思われる」でしめるのは、なんともしまりがない。



批判ばかりしていても仕方ないので、ああなるほどと思った点など。

桶狭間のとき、籠城したら負けると信長が判断して、勝ちに行くために、出陣した。

でも、この作者は、籠城しても直ちに負けにつながらなかった、と解説します。

信長の家臣の反対を押し切らなければならなかったのは、信長一個人の問題だった。というような、解説がされています。


ともかく、テレビの番組作家が書いてるような話ではありますが、
一度全部読んでみて、また次回にでもちゃんとした感想を書いてみたいと思います。

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posted by taigon at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長関係書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月21日

もっと一国破城を研究しよう

さて、前回も指摘したとおり、
織田信長が天正8年に行った一国破城令を、もっと信長研究者は多角的に研究してほしいと思います。

特に、大和郡山をはじめ、奈良県の自治体が力を入れてくれたらいいのにという気持ちもあります。

戦国時代と大和、というとピンとこない人も確かに多いとは思うのですが、有名な松永久秀が本拠を構えた所でもあり、東大寺が焼けたりもしてます。

ほかに比べると、これといった超のつく有名な武将が育っているところではないので、興味はあまり持たれないのかもしれませんが。


最近の滋賀県の取り組みには、関心いたします。
こちらの地元の図書館に行っても、滋賀県が製作している時代マップのような解説本がいくつもあります。

奈良は古代、万葉などには多くの労力を割いています。


もっと、もっと、1500年代の大和を研究発表して、
また、織田信長が、新しい統一政権の一つのモデルとして可能性をみせた、一国破城を研究して、大和郡山城の意義などについて、どんどん発表してもらえたらと、思う今日この頃であります。
posted by taigon at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着情報&雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月15日

大和郡山城の意義

さて、改めて、私の一昔前の卒業論文、
「織田政権と大和」から考察していきましょう。

最近数回は、ブログの題名通りに織田信長を考えてこれていたと思います。


さて、スポットをあてるのは、やはりここ

大和の地に「武家による新しいシンボル」大和郡山城建設した意義。です。


もし織田信長がもう少し長生きしていれば、天正8年大和で行った城割と指出検地の政策は
きっと、後世に大きな政権の転機、もしくは政権の特徴的出来事として扱われたことだろうと、思っています。
例えば安土城が、後のいわゆる織豊系城郭の先駆けとして、研究が進められているように。


郡山城が、郡山の地に建設された意義を簡単に説明すると、
長年大和の中心として繁栄し、寺社が守り、古代から中世の権威の象徴のような、「奈良」という地に対して
武家政権により新しく、政治、経済、軍事、すべての面においてその中心としてのシンボルとして建設された。
それが、郡山城だった。

ただ単に新しい城を築くだけでは、そういうシンボルにはなりえません。
そのために、信長は事前に周到な準備を行っています。

それが、大和国内のすべての城を破却するという命令です。
軍事的な敵対勢力の城を破壊するのではありません。
れっきとした信長の家臣であるはずの、筒井順慶の本拠、筒井城もいのいちばんに破却されています。

郡山城を信長が重要視していたことが分かります。

また、大和国内の年貢高を確定させるために、検地をおこないます。
指出という手法ですが、寺社武士など漏れることなく、前年の年貢高が詳細に信長に報告されています。


この後すぐに、本能寺の変がおこり、信長が死んでしまうのですが、
もうしばらく生きていれば、郡山の城下町政策についても、いろいろと指示が出たのではないだろうかと思います。

本能寺の変の後も筒井順慶が郡山にあって、大和の支配を行っているのですが、
詳細な高札などがかけられたという資料が、今のところ私は知りません。

もし、そのようなものが残っていれば、必ず、岐阜や安土のように、大きな信長の研究対象となったことでしょう。

それが、残念です。



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posted by taigon at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月07日

あやふやな組織

この表現は正しく私の考えをあらわしてはいないんですが。
とりあえず、使っておきます。あやふや。


人間の心なんていうのは、常に揺れるものです。

信長が作ろうとしたのは、

「自分にとって一番都合がいいもの」

だったのではないでしょうか。


信長が思う通りにことが運ぶように、形を作っていく。
でも、思い通り運ばないところは、とりあえず現状維持。
詰将棋みたいなもんでしょうか。


信長の意志だけが反映されるので、あっちとこっちでやることも、また時期によってやることも、統一性がなく、一過性になるのではないでしょうか。

ただし、あやふやなのは、「方法が」であって、「目的が」ではない。

目的は、常に、信長の信長による信長のための、最強の軍団を作るためにその瞬間一番合理的な方法をとっているともいえます。


ですので、戦国大名的でも、近世的でもないのであって、信長的なんではないでしょうか?


古い織田政権関係の論文を読んで、個別の政策などで信長論を解釈しようとすると、千差万別になってしまうのは、これが原因なのでしょうね。


こんなこと、もっと早く気がつけばよかった。

posted by taigon at 18:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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