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2009年01月28日

週刊安土城をつくる創刊号 感想1

ちょうど発売の一ヶ月前にこちらでも紹介しましたディアゴスティーニの週刊『安土城をつくる

創刊号を、早速購入しました!DVDもついて、特別価格、590円

早速感想を述べたいと思います。


まだ、肝心のパーツ作成の方はしていないので、そちらの感想はまた次回以降に。
今日は、マガジンと、DVDの方の感想です。

まずはマガジン、と行きたいところですが、特筆すべきはDVDでしょう。

創刊号付録DVDの中身は、驚くなかれ、私が前々回紹介した −『よみがえる真説安土城』徹底復元 覇王信長の城― の主要グラフィックが、画像ではなく映像として登場するのでした。

よみがえる真説安土城』では、その美しいグラフィックに目を奪われるのですが、それがさらに今回の『安土城を作る創刊号』ではDVDとなって、テレビ画面で動く映像として見られる。これはホントに素晴らしいです。
また、作成していく模型の詳細な映像と、作成ポイントを紹介した解説も収録されています。


ちなみに完成模型の映像や作成ポイントを紹介した部分は、工作好きな方にはよだれが出そうな映像ですが、残念ながら私はその解説映像を見て、2号以降を購入するのを、諦める事にしました…
不器用で根気がない私には、絶対に無理だ。
ただの城好きには無理です。多分。

と、まあ、まだ作成もしていないので、この辺りの感想は次回以降で。



さて、マガジンの方ですが。
6つの章で構成されているようです。
【覇王信長の世界】【城の美と巧み】【幻の城 安土城】【日本の城紀行】【信長ゆかりの人物記】【ステップ・バイ・ステップ】

それぞれ主要著者が決まっていて、例えば覇王信長の世界は、主に小和田哲男氏が担当されるといった感じで、統一的に紹介されています。

残念ながら、読み物としては、対象者が専門的(マニアック?)な歴史ファンよりも、どちらかというと歴史ドラマファンあたりの内容となっている感じで、全体的にあっさりと終わっています。
ただ、あっさりとしている分、きっちりと過不足なく読めるのも間違いないです。

全号揃えるのに根気時間金銭、と三拍子揃わないと無理なので、
ここはおそらく、定年退職した時間とお金のある、団塊世代の城ファン向け、と定義付けられそうです。

定年間近の方や、定年後手持ち無沙汰になっておられる方には、オススメです。
また、手先の器用なお孫さんに歴史に興味に持ってもらうためにプレゼントするというのもいいかもしれませんね。

マガジンの内容についても、いくらか感想を覚えましたので、また次回以降に書いていきたいと思います。

とりあえず今日はここまでです。


ちなみに、余談ですが、先日ディアゴスティーニのサイトを見ていたら、全110号のはずが、よくある質問のページに101号ですとか書いてあったので、メールで指摘すると、数分後に返信と共に、早速サイトの間違いも110号に訂正されていて、世の中の対応の早さに驚きました(笑)


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posted by taigon at 21:32| Comment(3) | TrackBack(0) | 信長関係書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

吉川晃司と天地人

今日はべたに大河ドラマネタ。

天地人』がスタートして早、今週末で4回目。
毎回出てくるとは思いもしなかった織田信長。

意外と吉川晃司もありだな、と思うのは、私だけでしょうか?

大河に出る信長は、役所広司のイメージが強すぎて、その後信長でこれって人はいなかったけれど、今回の吉川晃司の何とも言えない、口べたっぽい高慢チキな信長は、ありだなと思ってしまいました。

ドラマの方は、子役の喜平次・与六コンビに、周りのシルバーたちが大絶賛、惚れまくっているのが面白かったです。
大人になった直江兼続(妻夫木聡)始め、他の役どころが、まだまだ中途半端でこれからという感じですね。


このブログは信長をあらゆる角度から考えるものですので、吉川晃司演じる信長の台詞から、ドラマの設定や今後を占ってみましょう。

さて、天地人で信長は桶狭間の勝利を「運(ラッキー)で勝った」と言いましたよね。たしか。ラッキーの理由は、天候だったですかね。

となると、歴史考証的には、「奇襲戦で天才信長勝利」という設定でもなさそうです。

ただ、武田信玄が天下(京)を狙って行軍中に死んだという設定。
それを、上杉家も認識していたという内容。
つまり、戦国大名はみんな天下を狙っていた、と受け取れる設定は、今まで通りごく古典的な時代背景になっていると思われます。


今どきの歴史認識では、本気で天下布武を考えていたのは、信長一人で、他の戦国大名は地方での実力を増して、幕府や朝廷から一定の権限を委譲させ、支配国を増やすのが目的だった。というのが一般的ですね。

実際のところは、信玄が死んでしまったので分かりませんが、もしかすると最後のあの時のだけは京を目指していたかもしれないですね。


大きな軍隊率いずに、個人として、上杉謙信も信長も京にのぼって将軍謁見とかしてるんです。
信玄は不可能だったのでしょうか?なぜしなかったんでしょうね。


それはそれとして、
吉川晃司の信長登場シーンはいつも、薄暗かったり靄っぽかったり夕暮れ時だったりと、魔王を連想させる演出がされています。
義侠心ある爽やか上杉と、魔王信長を対比させている天地人。

実は数年前に、地元紙で『天地人』が連載されていて、全部読みました。
どっちかというと、真田幸村や前田慶次郎、立花宗重など、講談に出てきそうな武将が今後どしどし出てくるはずなので、痛快戦国ドラマとして、去年に引き続き、歴史考証度外視で見て行った方がいいかもしれませんね。

そんな吉川信長の新しい信長像を楽しみたいと思います。



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posted by taigon at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 天地人と信長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

『よみがえる真説安土城』

さて、以前に西田敏行主演の映画「火天の城」を紹介した時に、少しだけ紹介しておきながら、そのままになっていた安土城関係の本を紹介します。

『よみがえる真説安土城』徹底復元 覇王信長の城

私は、とても興味深く面白く読みました。
今まで読んだ安土城関係の本では一番面白かったです。

作成されているCGの美しさと、豊富さは素晴らしい。
伝承と旧説・新説を丁寧に比較しているのも分かりやすい。

さらに検証材料となる史料が豊富です。

個人的に楽しく読めたのは、「第3章安土城の歴史」の文献史料検討とパリで紹介された安土城の図の検討。目からうろこもいくつかありました。
それと、第4章の、立花京子氏の「信長と宣教師」はとてもミステリアス。たぶん、信長研究をしている方なら、立花氏の著書を一度は目にしているのでしょうが、私は残念ながら今回が初めてだったのですが、楽しく読めました。布教のための全国制覇こそが、彼の目的だった、とはなかなか言い切れないですよ。


信長好き、城好き、の方は是非一度手にとって読んでみてください。




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posted by taigon at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長関係書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月09日

東京大学史料編纂所DBを利用しよう

週一回、週の前半に、安定的に記事を書くのを目標に取り組んできましたが、今月から、月6回程度に更新していくのを目標にしたいと思います。しばらくペースが乱れますが、御了承ください。

さて、今日の話題は、歴史を研究するために知っておくと便利なこととして、東京大学史料編纂所のサイトを紹介します。


この東京大学史料編纂所のサイトでは、史料のデータベース(以下DB)を公開されています。
残念ながら、私がの存在を知ったのは今日です(爆)
リンクはこちら

とある方の依頼で調べていて知ったのですが、このDBは検索であっという間に、『史料綜覧』などの索引を引っ張ってくることができます。
さらに、すべてではありませんが、本文のTIF画像も同時に見ることができます。

私が学生のころは、この東大史料編纂所が進めている大日本史料史料綜覧などを利用して、年表作成のために研究室や大学図書館などに通いつめたものですが、このように便利なDBが公開されていると、検索などが恐ろしいほど容易になります。

まだ、使い方の詳細は理解していませんが、私は試しに「>できごとを主題に」というところから、「大和郡山」で検索してみました。

すると、永享7年から、寛文10年までの史料が索引としてずらっと出てきました。

思わず「おお!」と言ってしまいました。

さて、ここで少し余談ですが、
その一覧の「天正8年3月8日」の項に
「信長、山城山崎、大和郡山に放鷹し、又摂津伊丹城を巡視して、是日、入京す、」とあります。

「ありゃりゃ」と思ってしまいました。
残念ながら、これは大和郡山ではありません。私が卒論の中身を検討していた当初にもこの記事を発見して、「信長が天正8年の春に大和郡山に来てるexclamation&question」と、びっくり仰天して、「これは使える!」といろいろ調べてみたのですが、どう考えても信長の行程に無理がありますよね。
元史料(なにか忘れました ←思い出しました。 「信長公記」天正八年三木城落城の記事の所です。山城山崎から郡山の途中に、天神馬場・太田でも放鷹とあります。)は「郡山」としかないので、前後に山城山崎と摂津伊丹とあれば、当然「摂津郡山」に違いない、ということで卒論で使うのをやめた記事です。

当時の大学の先生が、「当然誰もが見つけて知ってるだろうけれど、一応連絡しとくは」ということを言っていたと思うのですが、まだ大和郡山になっているということは、訂正されないってことでしょうか?詳しいことは私にはよく分かりません。



話を元に戻して、
このDBで、ブラウザ上でTIF画像をプレビューするにはビューワのプラグインなどひと工夫がいるようです。
以下にリンクを張っておきますので、そちらから一度ご確認ください。

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/faq/viewer.html

それでは、注意事項などを守って、有意義な利用をしてください!

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2009年01月06日

不吉の「四階」櫓

前回の記事で、宣教師が記した「」とは、眉間寺の破却していない部分、もしくは、城内に新たに建立した安土城の「ハ見寺」のようなものという可能性も否定できないと思う、と述べました。

すなわち、多聞院日記にある「四階ヤクラ」と、宣教師が記した「塔」はイコールで結ぶには、まだ考察の余地があると思っていました。

まだ、史料に直接触れていない私は、すべての疑いが晴れたわけではありませんが、永禄5年の多聞山城棟上げの際に奈良の住民に見物させたのが、四階櫓のことだとされているようです。


また、「大和コクジン」の方から聞いた話で、伝わっているところによると、四階櫓の「四重」という数字が本来、寺などでは絶対に使用されない「偶数」階だということで、不吉だとうわさされていたようです。

松永久秀が、この櫓を四階にした理由に、元々多聞山城のあった地には眉間寺があったわけですが、この地に三重塔があったようです。

久秀は、自分の権威を増すために、新しく築く城には四階の櫓を建てたようです。


なるほど!と思いました。

となると、やはり信長の安土城が七階天主が建っていたというのも、数字的にも一つの権威への挑戦だったと、思えてきますね。

偶数にはしなかったけれども、現存する高層の寺院の塔の多くは三重五重であることを考えると、その上をいく七層で、しかも奇数にしてある。

余談ですが、
古い話で記憶が定かではありませんが、確か、NHKの大河ドラマの緒方直人が演じた「信長」で、去年の大河篤姫で調所広郷(ずしょひろさと)を演じた平幹二郎が演じる占い師(隋天)と、信長が安土城の高さをめぐって吉凶を論じていたシーンがあったのを覚えています。

あのドラマは、変な信長だと思いましたが、今から考えると、宣教師から見た姿を描いていると思えば、しっくりくるシーンが多かったような気もします。



多聞山城についてもう少し続けます。

卒論「織田政権と大和第二章」の中でも紹介していますが、久秀は城下に「」を開いています。これは永禄12年秋の多聞院日記にみれる記事です。

この市は、「楽市」だった可能性があります。
信長が上洛して、久秀が信長から大和の支配を任された翌年のことです。
この市立てが、信長の案だったのか、久秀の独断だったのか分かりませんが、多聞山城ができてから相当時期が過ぎていますし、織田政権の方針と何らかのかかわりがあったのかもしれません。


いずれにせよ、織田政権と大和を調べる上で、松永久秀の動向はしっかり理解していかなければならないのは間違いありませんね。


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posted by taigon at 08:37| Comment(7) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

多聞山城四階櫓考

あけましておめでとうございます。
本年も「織田信長を考えてみる」をよろしくお願いいたします。


突然ですが、
記事に入る前に、お詫びと訂正をさせて頂きます。

前回までにも、何度も多聞院日記、多聞山城について言及してきましたが、相当数誤字を使っていたようでした。

本当に申し訳ありません。利用するパソコンによって、変換が多門になっていることが多々あったようです。
アクセス解析をすると、昔はそうでもなかったのですが、最近は随分多くの方にこのブログも読んで頂いているようで、当初に比べて訪問者の数が何倍にもなっています。
以前は、覚書程度に考えていた当ブログも、こうして検索にもヒットするようになり、多くの方の目に留まるようになったからには、できるだけ誤字脱字や解釈の稚拙さを減らしていかなければならないと、痛感しています。
あまりおられないと思いますが、私のブログで初めて多聞院や多聞山城を知ったという方がおられましたら、決して多門ではありませんので、多聞と覚えてください。お願いします。



新年早々お詫びの記事から始まりましたが、今回は、前回の記事で「建てたのが誰だかわからない」と説明した多聞山城「四階ヤクラ」について、「多聞院日記」にはないけれど、他の記事でならどうなのか、というところを解説します。

wikipediaには「多聞山城」の項があります。
実は、そこには永禄年間に四階櫓が建っていたことを証明する記事が書かれています。

その一つが、「興福寺旧記」という史料に載っているというものです。

私が記事を書く時の一応の目標として、元史料の価値や存在背景などを自分なりに理解している、ということを前提にしているので、前回このwiki他で紹介されている「興福寺旧記」の記事をあえて紹介していませんでした。
まだ、この興福寺旧記については、まったくの勉強不足で詳しいことは何も知らないのですが、今回はあえて利用させて頂きます。

この中で、「永禄5年に松永久秀が多聞山城の四階櫓の棟上げ式を奈良の住民を集めて行った」という記事を紹介しています。

信憑性はあるのかな、と思っていたところ、ある方から連絡を頂きました。そして、その方がおっしゃるには、記事はまず間違いないようです。

多聞山城が建てられる以前には、「眉間寺」という寺院が建っていました。
永禄年間に宣教師の述べる「塔」というものの存在が認められることは、前回お伝えしました。
私は、実はこの「塔」とは、眉間寺からの残ったものではないかと思っていました。
また、織田信長は安土城に「ハ見寺」という寺を城内に建てています。そこには三重塔が建っており、安土城が焼けた後も、ハ見寺は残りました。

私は多聞山城にもそのような寺院があった(眉間寺の名残でないとしても)のだろうと想像したのです。

その情報を下さった方も、眉間寺が残った可能性を疑われました。
しかし、眉間寺に関係ある方から情報を頂ける機会があり、その時に松永久秀は眉間寺を完全に破却したのだとおっしゃったそうです。そして、「興福寺旧記」にある四階櫓のお披露目が実際にあったという記録があるそうです。

話は少しそれますが、私が大和の中世戦国情報を利用する際お世話になるサイトが、
『奈良大和路』という、奈良の地域情報発信するサイトの、サイト内サイト「気分はコクジン」です。
大和の中世国人、中世城跡を調べるなら、このサイトの右に出るものはありません。
私に連絡を下さったのはそのサイトの運営にかかわっておられる方です。

この眉間寺と多聞山城については非常に興味深い話でしたので、そちらは機会があれば次回以降に改めて紹介していと思います。
いずれ、「気分はコクジン」の方でも詳しく紹介されることと思いますので、そちらの方も一緒に楽しみにしていましょう。

「気分はコクジン」「多聞山城」「多聞城」として紹介されています。
その中で、信長が四階櫓を破却した理由について、「これから造る安土城の「絶対優位性」を確立し誇示する狙いによったものだったとも考えられる。」とあります。
私は、これは「まさにその通りだ!」と思いました。
実際に、安土城が建てられた後も、似た城を築城することは絶対に許していません。ただ織田家一門に許しただけです。

そこで、私は思ったわけです。
たとえ、原田直政が四階櫓を建てていたとしても、それは破却されたのではないだろうか、と。

四階櫓を建てたのが松永久秀で間違いなさそうなのに、今さらこんなことを書くのもおかしいのですが、私が想像していた織田政権による四階櫓建設の背景はこうです。

まず、畿内を掌握した信長は、京や大和には本堂と高層の塔が整然と並ぶ大寺院を目の当たりにする。
これら権威の象徴を、武士風にアレンジして作れないだろうかと、思った。
そこで、京から奈良の入口にある久秀の多門山城を接収した時に、原田直政に命じて、奈良の大工を集めて、試みに四重の武家風櫓を建てさせてみた。

と見れないかなと思っていました。

宣教師ルイス・フロイスの記事によれば、岐阜城が四階であったといいます。
これは四階ではなく、山肌に張り付いた四回階段を上がる建物だった、というのが正解らしいですが、少なくとも信長は狭い山の頂に豪華絢爛な内装をもった居住空間と高い建物を用意したいという気持ちは、永禄年間からもっていたと思われるのには間違いなさそうです。

そこで、目をつけたのが、機内に多い大寺院の建築物だったのではないでしょうか。
石垣、礎石をもち瓦葺の高層建物。それらの技術を我が独占としてしまいたい。

そこで、実験的に多聞山で高層櫓を建ててみた。原田が多聞山城を修築した天正3年はまさに、安土城の建築の直前です。しかし、安土城の普請も目処が立ち、多聞山城を任せた原田直政も、戦死した。
そこで、天正5年にいたり、多聞山城の四階櫓も完全に破却した。それは、安土城が絶対であるということを際立たすために。

という説も成り立つかなと私は密かに思ったのでした。


ちょっと、長くなったので一旦ここで今回は終わります。
今年も頑張っていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。
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posted by taigon at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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