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2009年03月31日

吉川晃司とワイン

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直江兼続の活躍がやっと出始めたNHK大河ドラマ天地人。
むしろ、なんてでしゃばりなんだと、この若造めと言われるような雰囲気を作りつつある前回。

次回が楽しみですね〜

さて、信長は相変わらず、魔王っぽく扱われています。
安土城天主が完成してる感じでその中で、ワインを片手にうろうろ歩きまわって、話をする信長。

でも、この構図は少しおかしいかも。
信長が安土の天主に引っ越すのは、天正7年と言われています。
天地人のストーリーでは、この回は天正6年にあたります。
まだ、本丸の方に住んでるのではないでしょうか。

でもって、信長は、大坂やら播磨やらの情勢に忙しい時期です。
のんびり安土城天主でワインを飲みながら、真田の娘と上杉の話などしている状況だったとはいいにくいですね。。。


それはさておき、
絵的には、私はああいう感じの信長はありだなと、感心してみています。
西洋風燭台に沢山の蝋燭を立て並べたり。
ワインを飲んだり。

ただ、キリスト像が気になりますが。。。


posted by taigon at 06:30| Comment(0) | TrackBack(1) | 天地人と信長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月20日

本能寺の変はなぜ起こったか 津本陽著

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『本能寺の変はなぜ起こったか―信長暗殺の真実』 津本陽の著書です。

非常に、きれいに美しくまとまっている、小説家による信長評の本です。

少し信長を持ち上げすぎるところがありますが、それもそれほどとっぴではないのでありでしょう。
(長篠設楽が原の戦いの鉄砲三段撃ちは肯定されていますが)


本能寺の変という主題に入るまでに、信長の人生と業績を振り返ってもらえているので、織田信長の事をあまり知らなくても、要点は抑えられます。

本能寺の変前後の歴史的事実も丁寧にたどってもらえているので、それも分かりやすい。
下手に他の本能寺関係本を読むより、これに先に目を通しておいた方が良いかもしれません。


「本能寺の変の真実」という、津本陽なりの私見を述べるクライマックスの章は、はっきり言って盛り上がりませんが、こうなれば誰もがなるほど、といえる結果になっていて、良識ある歴史ファンなら妙に納得させられる答えになっています。
逆に言えば、「本能寺の変の真実」とうたう割には、真新しいことが書かれているわけでもなく、すごい裏読みとかしてないので、そういうのを求めている人にはとても物足りない事でしょう。

前に読んだ谷口克広『検証 本能寺の変』に似たタイプかも。

ただ津本本の方が、小説家らしく読みやすいです。


私の調べている天正8年前後の話題も豊富で、筒井順慶も最後の最後に名脇役で出してもらっているので、読後感は抜群でした。


本能寺の変前後の細川藤孝と筒井順慶をしっかり資料でおってみるのもいい勉強になると思います。

多聞院日記を読めばの筒井の動向は、日和見というか右往左往する順慶の心野中がとてもよく分かって、嶋も井戸など男っぽそうな武将がイライラしている雰囲気がよく分かります。
この著書を読んでから、一気に多聞院日記の天正10年を読んでみてはいかがでしょうか?




posted by taigon at 21:03| Comment(3) | TrackBack(0) | 信長関係書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

『火天の城』


火天の城

火天の城

  • 作者: 山本 兼一
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2004/06
  • メディア: 単行本






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以前に紹介した『火天の城』を読みました。

山本兼一著。

これを読むと、あなたは大工になりたくなります。
登場人物がとても少ないので、最後まで人物相関に悩まないで読みきれます。
(新三河物語のときは登場人物ややこしすぎて参った。)

これを読むと絶対に、ディアゴスティーニの「週刊安土城をつくる」が買いたくなるのでご注意(笑)


さて、例によって「信長を考えてみる史観」で見てみます。

この小説、歴史的信長ファンなら必ず楽しめます。
というのは、元の史料のどの部分を語っているのかが手に取るように分かり、
こんな想像すると楽しい、という事がずっと続くからです。

蛇石が崩れた理由、一説には建築中の安土城が倒れたという大雨、信長が見回りに来る緊張感。
など。

政治的ムダは一切省いてあるのに、たった一行程度で小憎らしいほどポイントをついたさりげない時代背景の説明。

にしても、一番楽しかったのは風景や人物描写が目に映るようだという事。
表現が簡潔で分かりやすいのに、ちゃんと文学的で心地よい気持ちで風景を想像できます。

小難しい小説を読むことが多い時代小説や歴史小説のファンの皆様には、新鮮な空気が流れることと思います。


章たてでもなく、淡々と48節まで続くのですが、ひとつひとつの節にテーマがあって、区切りをつけて読むことができます。

不思議な小説ですね。

また、戦国ものなのに、戦のシーンがほとんどないのも面白いです。


ただ、間違ってもこれは歴史小説ではありません。時代小説です。
歴史の中でこんなことがあったらおもしろいと感じて描かれているファンタジーです。

そう思って読んでくださいませ。

映画サイトの紹介を見るとまた違う雰囲気のストーリーになるようですが、それもまた楽しみです。



posted by taigon at 21:55| Comment(0) | TrackBack(1) | 信長関係書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

戦国以前の大和と筒井古城

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さて、前回まで三回にわたり筒井城の発掘の調査について報告しました。

http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kurasi/kyoiku/tutui.pdf
現地のマップが市のHPに掲載されていたので、リンクを貼っておきます。参考にしてください。


今回は、背景がわかるように、当時の大和の政治状況を少し説明と、私見を少し書きたいと思います。


今回の筒井城発掘で見つかった堀は、出土遺物から14世紀末から15世紀前葉のものと推定されています。

この時期の大和では、「大和永享の乱」が起きています。
永享元年から北の筒井氏と南の越智氏を大将として二派に分かれて抗争していました。
永享元年は1429年。まさに15世紀前半です。

さて、この抗争の最中、1429年に筒井の在所が焼かれています。「城」の初見もこのときのようです。
この後、度々越智方に筒井は攻められているので、先日の現説では、この頃にそれまでの筒井城の堀が埋め戻された可能性を指摘されています。

14世紀は南北朝時代、大和は京(北朝)と吉野(南朝)の中間地として、地理的にも政治的にも抗争の真っただ中にありますので、小競り合いは相当あったであろうし、いわゆる戦の最前線でした。

また、興福寺の一乗院、大乗院の抗争が激しくなるのもこのころ。

このような抗争激化の中で、いわゆる権門と呼ばれるトップたちの経済が困窮してくる状態がおこります。
経済基盤である荘園の崩壊や、争乱の中から悪党などの成長がみられるところです。

大和で軍事的また経済的に実力をもつと、いきなり政治的重要人物から目をかけられるという、中央独特の政治事情も出てきます。

こうして、権力者が大和での新興勢力と結びついて、絶え間ない抗争が続く。
そういう時代背景があったわけです。

また、建築技術でいえば、古代以来の巨大寺院建築、溜池などの普請のノウハウがあったはずです。
政治、経済、技術、の先進地が、大和方面であったことは間違いがない。

現説資料の「まとめ」でもありましたが、本格的な戦国時代到来前にこのような大規模な堀をもつ城が既に大和に存在していた。というのは、以上のような背景があったからであると考えられます。


そして、古い時代に、すでに埋められてしまった城が多数存在する可能性がある。
この点を指摘しておかなければなりません。

つまり、近世の直前まで改変がくわえられ続けた戦国城下町とは違い、今回発見された筒井城の堀のように、古い形がそのまま地面の中に保存されてしまった可能性です。

天正8年に信長による大和一国規模の城郭破却があったのも見逃せません。

まとめて簡単に言うと、中世にすでに相当規模の軍事施設が作られつつあった大和の館では、打ち続く抗争により、より古い時代に破却埋め戻しなどがなされた。後に作られた城郭も、他地域に比べ比較的早い段階(天正8年)で、大規模破却が行われたため、近世的改変がくわえられる以前に放棄された。
このため、大和の多くの城跡は、戦国期の状態が放置されているだけでなく、その土中にはより古い中世の城郭跡が当時の姿のまま埋まっている可能性がある。


当然、埋め戻されずに古い段階で放棄された城跡もあり、城郭探査をされている方々からは多くの報告がなされています。
個人的に確認はできていませんが、教えて頂いたところのよると、畝堀については、大和の福住井之市城にあるそうです。また、他の城では版築土塁も確認されているそうです。

これらの可能性を浮かび上がらせたのが、今回の発掘成果といえます。


ただし、筒井城の畝は、ひとつしか見つかっておらず、今回発掘した範囲は極端に狭いので、これが後の畝堀となる先進技術なのかどうかは、はっきりしていません。

しかし少なくとも、多くの可能性を秘めた筒井城(古城とでも呼びましょうか)が、今後ますます注目を集めることになりそうな予感がします。
posted by taigon at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

筒井城第12次発掘調査現地説明会 概要

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筒井城第12次発掘調査現地説明会 詳細内容です。


前回までの記事で、速報、フォトギャラリーとして紹介した筒井城発掘の現地説明会。

今回は、現説で頂いた資料から、詳細を報告します。

筒井城の発掘調査はすでに第12次調査まで進んでいます。
過去には、堀跡から鉄砲の鉛玉が出てきたりと、マイナーな城の割に面白い成果も出ています。
意外と貴重な中世遺跡なのです。是非、これからも調査が続いて、注目度が上がればと節に期待します。


さて、以下に「大和郡山市教育委員会」発行の「筒井城第12次調査現地説明会資料」から紹介していきます。
以下の文章は許可を得ての、現説資料の引用要約、図面はすべて資料からの転載です。こちらのブログからの無断の転載引用はご遠慮ください。

筒井城発掘12次調査位置地図.jpg

調査は1月19日から開始。
場所は、城の内郭部分としてはほぼ東の端にあたる部分で調査前は平坦でした。
城が廃絶した16世紀末には、ここは郭であったと考えられます。なお調査面積は84平米でした。


概要

筒井城12次発掘平面図.JPG

発掘調査の結果、2条(堀1、堀2)の堀を検出。堀が埋め戻された後、盛土がなされ郭となるが、建物などの遺構は検出されなかった。




堀1

筒井城12次堀1断面図.jpg

幅約8m(犬走りまで)、深さ1.8m の大規模な堀。堀の内側となる北斜面には土塁が設けられている。土塁は上面が削平されており、その北側は調査区外なので全体の規模は不明だが、もし仮に堀1と同規模であれば、堀底から土塁頂部までの高さは4m近いものとなる。

堀の断面形状
南斜面が約55度、北斜面は約60度を測り、かなり急(それぞれ上端付近には傾斜の緩い部分があり)。堀底は平坦面をなしており、形状はいわゆる箱堀。
堀底には畝状の障壁(堀畝)を設け、敵の横方向の移動を困難としている。←編者(taigon)注、これが新聞で大きく報道された部分です。
なお、堀内の土層観察から、この堀は常時湛水していたものと思われる(水堀)。

土塁
地山をわざわざ50cm程度掘り下げてから、粘土と砂を交互に突き固めながら積んでゆく堅固な互層積構造。←編者注、こちらも新聞で版築工法として大きく報道されました。
また、斜面下方には犬走りもある。土塁頂部は削平されているが、掘込みの基底部から頂部まで約1.4m遺存しており、後の盛土でパックされていたため、その保存状態はきわめて良好。←編者注、ここに注目ください(後日解説)。

堀1の使われていた時期については、出土遺物から14世紀末〜15世紀前葉と考えられる。ただ、出土遺物中には若干時期の古いものも見られる。実際の掘削時期はこれより遡る可能性もある。

堀2

筒井城12次堀2断面図.JPG

幅約4.5m、深さ約1.3mの南北方向の堀で、断面の形状がX字形(斜面の角度は約30度)となる。薬研堀。
堆積土から判断して、堀1同様水堀であったと思われる。堀1とは直結しないが、出土遺物の示す時期はほぼ同じで、両者は同時に使われていたと推定。東西方向、南北方向の堀が接することについては、城を守るための何らかの工夫だと思われるが、現時点では具体的な機能は不明。



まとめ
今回、地表面に全く痕跡を残さない場所から堀が見つかった。筒井城の堀跡は現在、蓮畑や水路として残っている。これは最終的な城の姿を示すもの。より古い段階の堀は完全に埋め戻され、地表面に痕跡を残していないことがわかる。このことは、城館調査における発掘調査の重要性を物語る。←編者注、後日所見を述べたいと思います。

堀1では、内側に撒密な工法で築造された土塁を伴っており、堀底には障壁(畝)を設けるなど、筒井城が本格的に構築された軍事施設であることを示している。従来のイメージでは、今回見つかったのと同時代(14世紀末から15世紀前葉)の堀は、おもに農業用水路を兼ねるもので、規模も後の戦国時代(16世紀)のものに比較してかなり貧弱というイメージがあったが、今回発見された堀は、全く異なり、専門的な築城技術によって構築されており、軍事施設としての高い機能を有したものだとわかる。


このほか、今回発見された堀の延長は、ここから60m東で発見された堀(2008年第11次調査)の延長と南北で食い違う形になり、この部分に主郭の入り口(虎口)が存在した可能性もある。今後、周辺区域の調査を進めることにより、この時期における大和の築城技術がより鮮明になるものと期待される。

筒井城発掘12次主郭周辺の堀の分布図.jpg



筒井城の文献の所見は永享元年(1429)だが、今回や第10次調査では、14世紀にはすでに規模の大きな堀を有していたことが判明したことから、城の起源は永享元年より以前とわかる。
また15世紀前葉、筒井氏は越智氏や箸尾氏と軍事的な緊張関係にあった。筒井城も何回か落城している。今回見つかった堀は15世紀前葉に埋め戻されているが背景には、こうした戦乱の影響があっただろう。




以上が今回発表された内容です。
推定がすべて事実であれば、城郭史的には大変注目されるべき多くの成果がありました。
次会には、いくらか感想を書きたいと思います。

繰り返しますが、以上の内容は引用の許可を得ておりますので、このブログからの無断での転載引用はご遠慮ください。
posted by taigon at 11:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月01日

中世筒井城から最古の畝堀跡

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前回速報しました筒井城の現地説明会に行ってきたので、御報告します。

大まかな内容は前回紹介したweb新聞記事などからでもわかるとおり、

・土塁がまるで版築のような互層積みになっていた。
・堀の底から畝があらわれた(畝堀)

という点です。

14世紀から15世紀前葉のものとしては、相当先進的な工法のようです。

さて、詳細は改めて次回報告するとして、今日はフォトギャラリーとしてお届けします

2009_0228筒井城0009.jpg
駅から狭い路地を抜けると見えてきます。


2009_0228筒井城0014.jpg
遺物の説明では、多くの人が真剣に聞き入っていました。


2009_0228筒井城0015.jpg
出土物の目玉、茶釜の蓋


2009_0228筒井城0024.jpg
箱掘 幅訳8メートル 深さ1.8メートル 畝も見えます


2009_0228筒井城0028.jpg
わざわざ50センチ掘り下げてから粘土と砂を交互に突き固めて積んでいる土塁の断面


2009_0228筒井城0033.jpg
畝堀の説明をしならが転ぶふりをする山川氏


2009_0228筒井城0043.jpg
堀の方から土塁側を眺める



posted by taigon at 19:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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