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2008年04月04日

中世興福寺終焉期の研究

今回から、興福寺の終焉を扱った論文をいくつか紹介します。

最近は、卒論を書いた頃にとった論文などのコピーを読み直しています。

前回紹介したものの他に、

「16世紀後半の奈良における貨幣流通-多聞院日記にみる支払手段の変化をめぐって-」浦長瀬隆

「興福寺の「枡の体系」と京枡使用令の構図」河野昭昌

「近世興福寺領覚書、内部構成と支配倫理の特質」幡鎌一弘

「戦国期大和の権力と在地構造―興福寺荘園支配の崩壊過程―」安国陽子(と思うのですが、コピーなので題が無いのです。すみません。)


を読みました。

今日はまず、浦長瀬隆氏の論から。

これは、簡単に言うと、
多聞院日記の購買記録の支払方法を、永禄8年(1565)から文禄5年(1596)までの時期を一覧して、その特性を求めているもの。
結論は、
支払方法が、4期に分けられ、T期は永禄8年から永禄11年。U期が永禄12年から天正14年、V期が天正15年から文禄元年。W期が文禄2年から文禄5年。となっています。
そして、T期が銭取引中心、U期が元亀2年以外、米取引中心、V期が銭の取引中心、W期が再び米になる。

となっています。

さて
これを、見て、近世大和研究されている方なら、一目瞭然。
永禄11年は、信長の上洛。
天正14年は、前年に豊臣秀長の大和郡山入部。があります。

ところで、普通、このT期からU期への銭から米に取引が変化した理由を「信長の選銭令」にもとめられることは、私の卒論にも書いています。

さらに、「興福寺の「枡の体系」と京枡使用令の構図」という論文を読むと、次のU期からV期への移行期も理解が深まります。

興福寺は米を計る枡を、使い分けて、その差益を生み出すという技をもっていました。
すなわち、徴収する時は大きい枡を、出て行く米には小さい枡を、と。
例えば、同じ一枡でも、入るときより出て行く量が少ないので、手元に残るわけです。なんと意地汚い。

しかし、その私枡の使用が、天正14年に豊臣秀長によって停止され「京枡」の使用に統一変更するよう、大和で令せられます。
これは、この方の研究では、奈良の経済を弱めるための政策だとされています。
その理由は「売買枡」の私枡の使用禁止が言われているからです。

となると、先の天正14年より、急激に、銭取引が増えることと関係がありそうではないでしょうか?


さらに、安国氏の研究については、色々思うところがあるので、また次回としますが、天正8年の指出、破城の両政策が、興福寺支配の直ちに否定には繋がらず、天正13年の秀長入部を待たなければならなかったということです。

こうしてみてくると、寺社の経済活動や政治活動は信長の上洛後、完全に織豊政権の政策の影響をもろに受けているのが分かります。


実際の、中世興福寺の終焉は、天正13年の筒井氏の伊賀転封、秀長大和入部と言える。というのが、大方の意見であり、また後日、安国氏の研究などについても述べます。

中途半端ですが、今日のところはここまで。
posted by taigon at 20:18| Comment(3) | TrackBack(1) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
信長の撰銭令は、信長の目指す流通制度に向けての意識の高さを感じますが、撰銭行為に厳罰を課したためにかえって貨幣流通を減退させちゃいましたね。
多くのことで評価をされる信長ですが、これは明らかに失敗の部類でしょう。
この失敗は信長に領国内にない鉱山の必要性を痛感させたに違いありません。実現はしませんでしたが国内産貨幣の製造を目指していたでしょうね。
その半年後くらいには生野銀山を支配下に置きますが、この時には秀吉が生野まで赴いています。織田家の情況を考えると、生野まで出兵したのはずいぶんとイレギュラーな出来事のように感じますし、その時の人選が秀吉だったというのもその後のことを考えると興味深いですね。ま、銀山ですから貨幣には繋がらなかったですけどね(^^;
いつもながら話が逸れてスミマセン
Posted by きせき at 2008年04月06日 18:12
あ、スミマセン、秀吉の生野出兵は毛利家の要請を受けた形になっています。でも播磨、丹波も完全に平定されていない頃なので、信長もやっぱり生野が欲しかったんでしょうね(^^)
Posted by きせき at 2008年04月06日 18:17
きせきさんのコメント一つ一つが、それだけで記事になりそうな内容なので、他の方にとても勉強になることと思います。ほんといつもありがとうございます。
信長は、大和では直ちに楽市楽座を行っていません。しかし、今で言う、価格破壊が、信長による大和への政治的介入後に起こっています。私の論の根本はここにあります。
どのような政策を行ったかより、何らかの介入後、どんな変化が起きたかが重要で、信長は起きる結果をどこまで見越していただろうか、と私はいつも考えています。
Posted by taigon at 2008年04月07日 15:17
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Weblog: 青春18切符で行く,日本の「城」巡り53
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