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2011年11月21日

戦国大和の遺構発見の記事 信長関係です

http://sankei.jp.msn.com/region/news/111121/nar11112118200004-n1.htm

奈良県橿原市の今井町は、江戸の町並みが残る国指定保存地区ですね。
以前に、大和郡山市の山川先生からも発掘成果の資料を頂きましたが、
今井町の堀の発掘は継続されていたのですね。

戦国期の三重の堀が改めて見つかったようです。

本願寺と信長の対立の最前線だった、河内と大和。

その貴重な資料となる遺構です。

26日現地説明会へ行きましょう!。。。といきたいところですが、私はいけません。
誰か、資料をもらってきてください!
posted by taigon at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月15日

筒井城第14次発掘調査報告

始めに、この度の東北関東で震災に合われた皆様、犠牲になられた皆様に、心からお見舞い申し上げます。
一人一人が、今自分で何ができるか考え、まずは日々の与えられた役目を一所懸命に努めたいと思います。


では、今回の記事です。

平成23年3月12日に、大和郡山市筒井町字シロ に於いて、大和郡山市教育委員会より、筒井城発掘調査の現地説明会がありました。

平成13年度より筒井城の正確な範囲や遺構の状態を知るために、継続的に実施されている調査で、今回で14次となりました。

14次調査は、2月3日から行われ、3月11日までに発掘された主な遺構、遺物について報告がありました。

まず頂いた資料から、主な内容を掲載します。


場所は、筒井城の中心地と推定されている、周囲より一段高くなった部分で、小字「シロ」と呼ばれているところでした。


検出されたのは、溝、井戸、掘立柱建物などでした。

注目されたのは、井戸と溝です。
井戸は、直径90センチの結桶(ゆいおけ)を重ねたものでした。
13世紀後半ごろのものと考えられており、この結桶を重ねた形状の井戸は、当時の大和地方においては、相当先進的なもので、しかも90センチものサイズになるものは、この地方ではめずらしいものです。
井戸の中の遺物などから、14世紀前半には意図的に埋め立てられています。

溝は、幅2.2メートル、深さ0.6メートル。南北方向にのびています。13世紀末に埋められたようです。


さて、現地説明会での話を以下に。

13世紀後半に、大和でもよくある環濠集落のような形での、堀を形成した館のようなものが、この地に作られた。その際、このように先進的な結桶のある井戸も作られるような実力ある主が筒井に拠点を持ったと考えられる。

その後、13世紀末に、堀が埋め立てられ、14世紀前半までに、同じ場所は盛り土を行い、土地を計画的に整備している。

この発掘現場より南で行われた以前の調査で、幅8メートル級の堀や、堀底に畝を伴うような堀を作り出すのは、この盛り土などを行った頃だと推定される。

とすると、13世紀末から14世紀初頭には、相当な実力を伴う勢力がここ筒井に本拠を置いたと考えられる。

筒井氏は、文献上では、1386年に筒井順覚が官符衆人として登場するが、それ以前にも、14世紀の前半にも文献上に登場している(私は知らないのですが、山川先生がおっしゃっていました)
そのさらに古い時代の遺構ではあるが、時代的に、筒井氏が築いた城であるということは可能である。とのことでした。

このころに、このような計画的な整備をする必要があるのは何か?

13世紀末頃に大和で起きた事件は「永仁の南都闘乱」と呼ばれるもので、興福寺の一條院と大乗院が争い発端とする乱でした。

この闘乱は、鎌倉幕府の介入を招くという事態になります。
古くから、大和は興福寺が守護地頭の役割を担い、幕府の介入がほとんどない地でしたが、この闘乱をきっかけに、幕府の介入を招き、幕府御家人が大和に常駐するという事態になりました(私は詳細をよく知りませんが、説明ではそうでした)

これをきっかけに、興福寺の力が弱まり、大和武士が台頭してくる、重要な出来事です。


さて話を戻しますと、まさに、筒井城で古い堀(環濠?)や井戸が埋め立てられたのは、このころのことで、盛り土をされていることから、整地作業も行われ、周辺の巨大な堀や城としての整備をしたものこのころだろうと推測されるわけです。

先進的な遺構も過去の発掘から発見されていますし、今回のような古い中世遺構も発見されたことにより、様々なことに意味のある発見となりました。


元来、筒井氏がどこから来たのかも不明です。出自がはっきりしないのです。
また、戦国時代以前の城の発症なども、畿内ではあまり例がありません。

環濠から城へ。

政治的背景なども読み解きながら、文献と遺構と両方からの作業により、これら研究の重要課題がわかる貴重な発掘となりました。

ぜひ、今後の研究課題にいかしていただければと思います。


なお、残念ながら、織豊期の筒井城の遺構は、今回の発掘では見つけられませんでした。
楽しみにしていた方は、次回のさらに中心部を発掘されるところを待ちましょう。

以下、画像を紹介しておきます

遺構全体
DSC00125.jpg

結桶の井戸
DSC00123.jpg

盛り土などの地層面を説明する山川先生
DSC00119.jpg

出土した土師皿
DSC00126.jpg
posted by taigon at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

筒井城の築城年代が早まる?

毎年恒例、筒井城発掘ネタです。

今朝の奈良新聞や、ネット上のニュースですでにご存じの方もおられると思いますが、今回は大きな成果のようです。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20110309-OYT8T01094.htm

記事によると、13世紀のものとみられる、井戸枠と盛り土の跡が見つかったとあります。

13世紀は、私の記憶では、文献上で筒井城や筒井氏が出てこないので、発掘の成果はかなり大です。
はたして、そのころから筒井氏がここを根拠に館を築いていたのかどうかは、定かではありませんが、なんらかの拠点施設であるのは間違いなさそうです。

詳細は、現地説明会を待ちたいと思います。

現地説明会は、12日午前10時から正午まで。
ちなみに昨年一昨年の現説を復習したい方は当ブログの過去ログをご参照ください。

第13次調査
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/143447360.html

第12次調査
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/115413859.html

また、筒井城など大和の城関連で詳しいのは以下
気分はコクジン
http://gfi402.web.fc2.com/narakokujin.htm
大和郡山市歴史辞典
http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/rekisi_flameset.html

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posted by taigon at 09:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

布施城現地説明会

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http://mainichi.jp/area/nara/news/20090702ddlk29040708000c.html


時期を外してスミマセン。
3日までの申込だったのですが、毎日新聞紙上で布施城の現地説明会が行われる旨報道されていました


ただ、行われるのは明日なので、個人的に出かけて行っても、歩いておられるところに出会えるかもしれません。


という私は、行こうと思えばいけたのに、腰痛悪化で不参加です。
どなたか参加された方、レポートお願いしますm__m

posted by taigon at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

戦国以前の大和と筒井古城

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さて、前回まで三回にわたり筒井城の発掘の調査について報告しました。

http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kurasi/kyoiku/tutui.pdf
現地のマップが市のHPに掲載されていたので、リンクを貼っておきます。参考にしてください。


今回は、背景がわかるように、当時の大和の政治状況を少し説明と、私見を少し書きたいと思います。


今回の筒井城発掘で見つかった堀は、出土遺物から14世紀末から15世紀前葉のものと推定されています。

この時期の大和では、「大和永享の乱」が起きています。
永享元年から北の筒井氏と南の越智氏を大将として二派に分かれて抗争していました。
永享元年は1429年。まさに15世紀前半です。

さて、この抗争の最中、1429年に筒井の在所が焼かれています。「城」の初見もこのときのようです。
この後、度々越智方に筒井は攻められているので、先日の現説では、この頃にそれまでの筒井城の堀が埋め戻された可能性を指摘されています。

14世紀は南北朝時代、大和は京(北朝)と吉野(南朝)の中間地として、地理的にも政治的にも抗争の真っただ中にありますので、小競り合いは相当あったであろうし、いわゆる戦の最前線でした。

また、興福寺の一乗院、大乗院の抗争が激しくなるのもこのころ。

このような抗争激化の中で、いわゆる権門と呼ばれるトップたちの経済が困窮してくる状態がおこります。
経済基盤である荘園の崩壊や、争乱の中から悪党などの成長がみられるところです。

大和で軍事的また経済的に実力をもつと、いきなり政治的重要人物から目をかけられるという、中央独特の政治事情も出てきます。

こうして、権力者が大和での新興勢力と結びついて、絶え間ない抗争が続く。
そういう時代背景があったわけです。

また、建築技術でいえば、古代以来の巨大寺院建築、溜池などの普請のノウハウがあったはずです。
政治、経済、技術、の先進地が、大和方面であったことは間違いがない。

現説資料の「まとめ」でもありましたが、本格的な戦国時代到来前にこのような大規模な堀をもつ城が既に大和に存在していた。というのは、以上のような背景があったからであると考えられます。


そして、古い時代に、すでに埋められてしまった城が多数存在する可能性がある。
この点を指摘しておかなければなりません。

つまり、近世の直前まで改変がくわえられ続けた戦国城下町とは違い、今回発見された筒井城の堀のように、古い形がそのまま地面の中に保存されてしまった可能性です。

天正8年に信長による大和一国規模の城郭破却があったのも見逃せません。

まとめて簡単に言うと、中世にすでに相当規模の軍事施設が作られつつあった大和の館では、打ち続く抗争により、より古い時代に破却埋め戻しなどがなされた。後に作られた城郭も、他地域に比べ比較的早い段階(天正8年)で、大規模破却が行われたため、近世的改変がくわえられる以前に放棄された。
このため、大和の多くの城跡は、戦国期の状態が放置されているだけでなく、その土中にはより古い中世の城郭跡が当時の姿のまま埋まっている可能性がある。


当然、埋め戻されずに古い段階で放棄された城跡もあり、城郭探査をされている方々からは多くの報告がなされています。
個人的に確認はできていませんが、教えて頂いたところのよると、畝堀については、大和の福住井之市城にあるそうです。また、他の城では版築土塁も確認されているそうです。

これらの可能性を浮かび上がらせたのが、今回の発掘成果といえます。


ただし、筒井城の畝は、ひとつしか見つかっておらず、今回発掘した範囲は極端に狭いので、これが後の畝堀となる先進技術なのかどうかは、はっきりしていません。

しかし少なくとも、多くの可能性を秘めた筒井城(古城とでも呼びましょうか)が、今後ますます注目を集めることになりそうな予感がします。
posted by taigon at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

筒井城第12次発掘調査現地説明会 概要

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筒井城第12次発掘調査現地説明会 詳細内容です。


前回までの記事で、速報、フォトギャラリーとして紹介した筒井城発掘の現地説明会。

今回は、現説で頂いた資料から、詳細を報告します。

筒井城の発掘調査はすでに第12次調査まで進んでいます。
過去には、堀跡から鉄砲の鉛玉が出てきたりと、マイナーな城の割に面白い成果も出ています。
意外と貴重な中世遺跡なのです。是非、これからも調査が続いて、注目度が上がればと節に期待します。


さて、以下に「大和郡山市教育委員会」発行の「筒井城第12次調査現地説明会資料」から紹介していきます。
以下の文章は許可を得ての、現説資料の引用要約、図面はすべて資料からの転載です。こちらのブログからの無断の転載引用はご遠慮ください。

筒井城発掘12次調査位置地図.jpg

調査は1月19日から開始。
場所は、城の内郭部分としてはほぼ東の端にあたる部分で調査前は平坦でした。
城が廃絶した16世紀末には、ここは郭であったと考えられます。なお調査面積は84平米でした。


概要

筒井城12次発掘平面図.JPG

発掘調査の結果、2条(堀1、堀2)の堀を検出。堀が埋め戻された後、盛土がなされ郭となるが、建物などの遺構は検出されなかった。




堀1

筒井城12次堀1断面図.jpg

幅約8m(犬走りまで)、深さ1.8m の大規模な堀。堀の内側となる北斜面には土塁が設けられている。土塁は上面が削平されており、その北側は調査区外なので全体の規模は不明だが、もし仮に堀1と同規模であれば、堀底から土塁頂部までの高さは4m近いものとなる。

堀の断面形状
南斜面が約55度、北斜面は約60度を測り、かなり急(それぞれ上端付近には傾斜の緩い部分があり)。堀底は平坦面をなしており、形状はいわゆる箱堀。
堀底には畝状の障壁(堀畝)を設け、敵の横方向の移動を困難としている。←編者(taigon)注、これが新聞で大きく報道された部分です。
なお、堀内の土層観察から、この堀は常時湛水していたものと思われる(水堀)。

土塁
地山をわざわざ50cm程度掘り下げてから、粘土と砂を交互に突き固めながら積んでゆく堅固な互層積構造。←編者注、こちらも新聞で版築工法として大きく報道されました。
また、斜面下方には犬走りもある。土塁頂部は削平されているが、掘込みの基底部から頂部まで約1.4m遺存しており、後の盛土でパックされていたため、その保存状態はきわめて良好。←編者注、ここに注目ください(後日解説)。

堀1の使われていた時期については、出土遺物から14世紀末〜15世紀前葉と考えられる。ただ、出土遺物中には若干時期の古いものも見られる。実際の掘削時期はこれより遡る可能性もある。

堀2

筒井城12次堀2断面図.JPG

幅約4.5m、深さ約1.3mの南北方向の堀で、断面の形状がX字形(斜面の角度は約30度)となる。薬研堀。
堆積土から判断して、堀1同様水堀であったと思われる。堀1とは直結しないが、出土遺物の示す時期はほぼ同じで、両者は同時に使われていたと推定。東西方向、南北方向の堀が接することについては、城を守るための何らかの工夫だと思われるが、現時点では具体的な機能は不明。



まとめ
今回、地表面に全く痕跡を残さない場所から堀が見つかった。筒井城の堀跡は現在、蓮畑や水路として残っている。これは最終的な城の姿を示すもの。より古い段階の堀は完全に埋め戻され、地表面に痕跡を残していないことがわかる。このことは、城館調査における発掘調査の重要性を物語る。←編者注、後日所見を述べたいと思います。

堀1では、内側に撒密な工法で築造された土塁を伴っており、堀底には障壁(畝)を設けるなど、筒井城が本格的に構築された軍事施設であることを示している。従来のイメージでは、今回見つかったのと同時代(14世紀末から15世紀前葉)の堀は、おもに農業用水路を兼ねるもので、規模も後の戦国時代(16世紀)のものに比較してかなり貧弱というイメージがあったが、今回発見された堀は、全く異なり、専門的な築城技術によって構築されており、軍事施設としての高い機能を有したものだとわかる。


このほか、今回発見された堀の延長は、ここから60m東で発見された堀(2008年第11次調査)の延長と南北で食い違う形になり、この部分に主郭の入り口(虎口)が存在した可能性もある。今後、周辺区域の調査を進めることにより、この時期における大和の築城技術がより鮮明になるものと期待される。

筒井城発掘12次主郭周辺の堀の分布図.jpg



筒井城の文献の所見は永享元年(1429)だが、今回や第10次調査では、14世紀にはすでに規模の大きな堀を有していたことが判明したことから、城の起源は永享元年より以前とわかる。
また15世紀前葉、筒井氏は越智氏や箸尾氏と軍事的な緊張関係にあった。筒井城も何回か落城している。今回見つかった堀は15世紀前葉に埋め戻されているが背景には、こうした戦乱の影響があっただろう。




以上が今回発表された内容です。
推定がすべて事実であれば、城郭史的には大変注目されるべき多くの成果がありました。
次会には、いくらか感想を書きたいと思います。

繰り返しますが、以上の内容は引用の許可を得ておりますので、このブログからの無断での転載引用はご遠慮ください。
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2009年03月01日

中世筒井城から最古の畝堀跡

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前回速報しました筒井城の現地説明会に行ってきたので、御報告します。

大まかな内容は前回紹介したweb新聞記事などからでもわかるとおり、

・土塁がまるで版築のような互層積みになっていた。
・堀の底から畝があらわれた(畝堀)

という点です。

14世紀から15世紀前葉のものとしては、相当先進的な工法のようです。

さて、詳細は改めて次回報告するとして、今日はフォトギャラリーとしてお届けします

2009_0228筒井城0009.jpg
駅から狭い路地を抜けると見えてきます。


2009_0228筒井城0014.jpg
遺物の説明では、多くの人が真剣に聞き入っていました。


2009_0228筒井城0015.jpg
出土物の目玉、茶釜の蓋


2009_0228筒井城0024.jpg
箱掘 幅訳8メートル 深さ1.8メートル 畝も見えます


2009_0228筒井城0028.jpg
わざわざ50センチ掘り下げてから粘土と砂を交互に突き固めて積んでいる土塁の断面


2009_0228筒井城0033.jpg
畝堀の説明をしならが転ぶふりをする山川氏


2009_0228筒井城0043.jpg
堀の方から土塁側を眺める



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2009年02月27日

速報 筒井城現地説明会 案内

http://mainichi.jp/area/nara/news/20090226ddlk29040585000c.html

大和国、筒井城の大型堀跡が発掘されました。
2月28日現地説明会です。

詳しくは、上記URLから、毎日新聞の記事です。

私は行けたら行く予定です。

また、帰って来てから詳しく書きたいと思います。

まずは、速報まで。
タグ:筒井城
posted by taigon at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月17日

大和郡山城下町を歩く

最近私事多忙につき、新しい話題があまりないので、思い出話など。

近鉄郡山駅を最寄り駅として利用する住民なら、必ず目にする大和郡山城と、その城下町。

奈良は空襲で焼けていないので、古くて細い路地が多いですが、城下町郡山はとくに狭い。
車で走ろうものなら、一方通行の通りに進むだけになってしまいます。


郡山城周辺の散策には、歩いて5分圏内にJRも私鉄(近鉄)あるので、遠方から来られるなら、電車を使うのが一番です。


でも、どうしても車で現地へ行きたいという方。
近鉄郡山駅前には、有料の立体駐車場があります。また、こおりやま城ホールという大きな施設にも有料の駐車場があります。
しかし、意外と知られていない、しかも、もっともお城に近い無料駐車場が存在します。それが、柳沢文庫駐車場。

郡山城追手門前にあるのです。

追手門から東隅櫓へはしる石垣前にあります。
およそ、10台ぐらいしか止められませんが、まず満車ということはありません。

ここに車を止めてよく、城を散歩しました。

天守台まですぐに歩けます。
夕暮れ時、天守台に登ると、北に夕焼けにはえる薬師寺五重塔、東には、東大寺の屋根と、美しい若草山が見えます。

そのまま、柳沢神社を過ぎて、県立郡山高校の前を西へ歩き、突き当りを南にあるくと、鰻堀、鷺池の間を抜けて近鉄郡山駅の西側の通りにでます。
通りを、東向いて歩くと、近鉄の踏切を過ぎ、まっすぐに歩くと、そのままJR郡山駅までいけますが、そこまで行かずに、途中北へ入る道がいくつかあります。

最近整備された外堀公園や、江戸期の古い町並み後など。

うろうろしていると、道の真ん中を水路が走る珍しい風景にあいます。これが紺屋町(こうやまち)の名残で、紺染めを晒した水路跡です。

http://www.hakomoto.com/

この辺りで、また西へ進むと、近鉄駅前にでますが、そのまま北へ進みまたうろうろ道に迷っていると、豊臣秀長の菩提寺があったりします。

郡山市役所や消防署が見えたら、「本家菊屋」の看板を捜して見ましょう。御城之口(しろのくち)という高価なお餅が有名な秀吉にも関係があるというお店です。400年の歴史があります

http://www.kikuya.co.jp/


郡山城ホールの大きな屋根が見えたら、そろそろ西へ向きを変えて見ましょう。

路地から少し広い車道に出れば、郡山城の石垣がずらっと見えます。

そこまでくれば、元の駐車場まではすぐ近くです。


一度是非歩いてみてくださいませ。
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2009年01月06日

不吉の「四階」櫓

前回の記事で、宣教師が記した「」とは、眉間寺の破却していない部分、もしくは、城内に新たに建立した安土城の「ハ見寺」のようなものという可能性も否定できないと思う、と述べました。

すなわち、多聞院日記にある「四階ヤクラ」と、宣教師が記した「塔」はイコールで結ぶには、まだ考察の余地があると思っていました。

まだ、史料に直接触れていない私は、すべての疑いが晴れたわけではありませんが、永禄5年の多聞山城棟上げの際に奈良の住民に見物させたのが、四階櫓のことだとされているようです。


また、「大和コクジン」の方から聞いた話で、伝わっているところによると、四階櫓の「四重」という数字が本来、寺などでは絶対に使用されない「偶数」階だということで、不吉だとうわさされていたようです。

松永久秀が、この櫓を四階にした理由に、元々多聞山城のあった地には眉間寺があったわけですが、この地に三重塔があったようです。

久秀は、自分の権威を増すために、新しく築く城には四階の櫓を建てたようです。


なるほど!と思いました。

となると、やはり信長の安土城が七階天主が建っていたというのも、数字的にも一つの権威への挑戦だったと、思えてきますね。

偶数にはしなかったけれども、現存する高層の寺院の塔の多くは三重五重であることを考えると、その上をいく七層で、しかも奇数にしてある。

余談ですが、
古い話で記憶が定かではありませんが、確か、NHKの大河ドラマの緒方直人が演じた「信長」で、去年の大河篤姫で調所広郷(ずしょひろさと)を演じた平幹二郎が演じる占い師(隋天)と、信長が安土城の高さをめぐって吉凶を論じていたシーンがあったのを覚えています。

あのドラマは、変な信長だと思いましたが、今から考えると、宣教師から見た姿を描いていると思えば、しっくりくるシーンが多かったような気もします。



多聞山城についてもう少し続けます。

卒論「織田政権と大和第二章」の中でも紹介していますが、久秀は城下に「」を開いています。これは永禄12年秋の多聞院日記にみれる記事です。

この市は、「楽市」だった可能性があります。
信長が上洛して、久秀が信長から大和の支配を任された翌年のことです。
この市立てが、信長の案だったのか、久秀の独断だったのか分かりませんが、多聞山城ができてから相当時期が過ぎていますし、織田政権の方針と何らかのかかわりがあったのかもしれません。


いずれにせよ、織田政権と大和を調べる上で、松永久秀の動向はしっかり理解していかなければならないのは間違いありませんね。


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posted by taigon at 08:37| Comment(7) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

多聞山城四階櫓考

あけましておめでとうございます。
本年も「織田信長を考えてみる」をよろしくお願いいたします。


突然ですが、
記事に入る前に、お詫びと訂正をさせて頂きます。

前回までにも、何度も多聞院日記、多聞山城について言及してきましたが、相当数誤字を使っていたようでした。

本当に申し訳ありません。利用するパソコンによって、変換が多門になっていることが多々あったようです。
アクセス解析をすると、昔はそうでもなかったのですが、最近は随分多くの方にこのブログも読んで頂いているようで、当初に比べて訪問者の数が何倍にもなっています。
以前は、覚書程度に考えていた当ブログも、こうして検索にもヒットするようになり、多くの方の目に留まるようになったからには、できるだけ誤字脱字や解釈の稚拙さを減らしていかなければならないと、痛感しています。
あまりおられないと思いますが、私のブログで初めて多聞院や多聞山城を知ったという方がおられましたら、決して多門ではありませんので、多聞と覚えてください。お願いします。



新年早々お詫びの記事から始まりましたが、今回は、前回の記事で「建てたのが誰だかわからない」と説明した多聞山城「四階ヤクラ」について、「多聞院日記」にはないけれど、他の記事でならどうなのか、というところを解説します。

wikipediaには「多聞山城」の項があります。
実は、そこには永禄年間に四階櫓が建っていたことを証明する記事が書かれています。

その一つが、「興福寺旧記」という史料に載っているというものです。

私が記事を書く時の一応の目標として、元史料の価値や存在背景などを自分なりに理解している、ということを前提にしているので、前回このwiki他で紹介されている「興福寺旧記」の記事をあえて紹介していませんでした。
まだ、この興福寺旧記については、まったくの勉強不足で詳しいことは何も知らないのですが、今回はあえて利用させて頂きます。

この中で、「永禄5年に松永久秀が多聞山城の四階櫓の棟上げ式を奈良の住民を集めて行った」という記事を紹介しています。

信憑性はあるのかな、と思っていたところ、ある方から連絡を頂きました。そして、その方がおっしゃるには、記事はまず間違いないようです。

多聞山城が建てられる以前には、「眉間寺」という寺院が建っていました。
永禄年間に宣教師の述べる「塔」というものの存在が認められることは、前回お伝えしました。
私は、実はこの「塔」とは、眉間寺からの残ったものではないかと思っていました。
また、織田信長は安土城に「ハ見寺」という寺を城内に建てています。そこには三重塔が建っており、安土城が焼けた後も、ハ見寺は残りました。

私は多聞山城にもそのような寺院があった(眉間寺の名残でないとしても)のだろうと想像したのです。

その情報を下さった方も、眉間寺が残った可能性を疑われました。
しかし、眉間寺に関係ある方から情報を頂ける機会があり、その時に松永久秀は眉間寺を完全に破却したのだとおっしゃったそうです。そして、「興福寺旧記」にある四階櫓のお披露目が実際にあったという記録があるそうです。

話は少しそれますが、私が大和の中世戦国情報を利用する際お世話になるサイトが、
『奈良大和路』という、奈良の地域情報発信するサイトの、サイト内サイト「気分はコクジン」です。
大和の中世国人、中世城跡を調べるなら、このサイトの右に出るものはありません。
私に連絡を下さったのはそのサイトの運営にかかわっておられる方です。

この眉間寺と多聞山城については非常に興味深い話でしたので、そちらは機会があれば次回以降に改めて紹介していと思います。
いずれ、「気分はコクジン」の方でも詳しく紹介されることと思いますので、そちらの方も一緒に楽しみにしていましょう。

「気分はコクジン」「多聞山城」「多聞城」として紹介されています。
その中で、信長が四階櫓を破却した理由について、「これから造る安土城の「絶対優位性」を確立し誇示する狙いによったものだったとも考えられる。」とあります。
私は、これは「まさにその通りだ!」と思いました。
実際に、安土城が建てられた後も、似た城を築城することは絶対に許していません。ただ織田家一門に許しただけです。

そこで、私は思ったわけです。
たとえ、原田直政が四階櫓を建てていたとしても、それは破却されたのではないだろうか、と。

四階櫓を建てたのが松永久秀で間違いなさそうなのに、今さらこんなことを書くのもおかしいのですが、私が想像していた織田政権による四階櫓建設の背景はこうです。

まず、畿内を掌握した信長は、京や大和には本堂と高層の塔が整然と並ぶ大寺院を目の当たりにする。
これら権威の象徴を、武士風にアレンジして作れないだろうかと、思った。
そこで、京から奈良の入口にある久秀の多門山城を接収した時に、原田直政に命じて、奈良の大工を集めて、試みに四重の武家風櫓を建てさせてみた。

と見れないかなと思っていました。

宣教師ルイス・フロイスの記事によれば、岐阜城が四階であったといいます。
これは四階ではなく、山肌に張り付いた四回階段を上がる建物だった、というのが正解らしいですが、少なくとも信長は狭い山の頂に豪華絢爛な内装をもった居住空間と高い建物を用意したいという気持ちは、永禄年間からもっていたと思われるのには間違いなさそうです。

そこで、目をつけたのが、機内に多い大寺院の建築物だったのではないでしょうか。
石垣、礎石をもち瓦葺の高層建物。それらの技術を我が独占としてしまいたい。

そこで、実験的に多聞山で高層櫓を建ててみた。原田が多聞山城を修築した天正3年はまさに、安土城の建築の直前です。しかし、安土城の普請も目処が立ち、多聞山城を任せた原田直政も、戦死した。
そこで、天正5年にいたり、多聞山城の四階櫓も完全に破却した。それは、安土城が絶対であるということを際立たすために。

という説も成り立つかなと私は密かに思ったのでした。


ちょっと、長くなったので一旦ここで今回は終わります。
今年も頑張っていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。
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2008年12月30日

多聞山城四階ヤクラを建てたのは誰だ?

久しぶりに歴史研究的な話をしてみようと思います。

木戸雅寿氏が以前にとあるシンポで発表された資料から私なりに整理してみます。


Wikipediaで、「天守」を調べてみましょう。
ウィキのいいところは、世間のいわゆる「一般」「常識」を知りうる手段となりうるところです。

さて、そこでは「天守の起源」について迫ろうとしてます。

その一つとして、松永久秀による永禄年間築城の「多聞山城(多聞城)」に「四階櫓」があった。ことを紹介しています。

俗に言う、後の安土城以降発展していく、壮大な天守閣をもつ近世城郭の始まりが、多聞山城だという内容の補足資料として捉えられています。


この多聞山城の四階櫓。

以前にも紹介しましたが、多聞院英俊という人が書いた日記「多聞院日記」の天正5年の記事に出てきます。
(ちなみに、多聞院と多聞城は両方「多聞」とありますが、関係ありません…)

その記事の内容とはなんと「破却された」というものです。

ここで、分かるのは、天正5年以前に多聞山城に四階建の櫓建っていたということです。

ところが、この多聞院日記には、残念ながら、松永久秀によって四階櫓が建てられたという記事がありません。
つまり、この日記からではいつ誰が建てたかはわからないといことです。


松永久秀の城に、四階櫓が建っていたのだから、松永久秀が作ったんだろう。と思うのはごもっともです。

しかし、天正5年時点で、この城を保有していたのは、実は織田信長です。

天正元年に信長に反旗を翻した久秀は、同年暮れ、降伏し多聞山城を信長に明け渡しているのです。
(私の論文中にも少し紹介しいています)

そしてそれ以降、松永党は多聞山城に入れていません。
信長から、期限付きで、明智光秀、柴田勝家などが城番として入城し奈良の諸政に干渉しています。
そして、最終的に原田直政が大和守護として入城するのが天正3年春です。


松永久秀が、多聞山城の築城にかかったのが、永禄4(もしくわ3)年のことです。
多聞山城に永禄年間にすでに「塔」が建っていたことを記すのが、宣教師の記事です。

この塔と多聞院日記の四階ヤクラと同じものなのかどうか。。。


さて、何が言いたいのかといいますと、
天正元年以降に入城した織田家の武将による「四階ヤクラ」の普請はなかったのか?という疑問です。

その根拠となる史料が、「多聞院日記」天正3年6月の塙(原田)直政による、多聞山城修築(普請)の記事です。


修築と言いますが、実は記録上多聞山城が攻められたりして戦禍に見舞われたことはないようです。
つまり、直政による修築とは、織田政権下での大和守護の拠点としての拡張工事ではなかったかということです。

その後、天正4年春にも、直政が多聞山城を巡検するという記事があります。
さらにこの直後、多聞山城にとって、運命が急展開する事件が起きます。

大和守護原田直政の戦死です。
これが、天正4年5月3日。信長は早くも5月10日に筒井順慶に大和国を任せる旨を伝えます。
この後、原田一族はなぜか、信長にみな捕えられてしまいます。

大和の政策は次々に発せられ、7月5日から村井貞勝に命じて多聞山城の取毀がはじまるのです。

しかし、四階櫓が破却されたのは、一年近くも過ぎた翌天正5年6月5日でした。


これが簡単な多聞山城四階櫓の歴史です。表題の意味についてご理解いただけましたでしょうか?


次回に、私なりもう少し突っ込んだ検証をしてみたいと思います。


一応、今年の記事はこれで終りの予定です。
今年も一年ありがとうございました。また、来年からもよろしくお願いいたします。


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2008年11月11日

筒井順慶はなぜ郡山辰巳氏を殺さなければならなかったか

結局、風邪をひいてしまい、出席できなかったのですが、変わりに家族が意味もわからない中参加してくれました。
資料も貰ってきてくれたので、それを参考に感想を述べます。


結論からいえば、私の論文に書いてある内容を、相互補完したような話だったようです。

つまり、現在一般に通説になってしまっている、天正8年の郡山一城残しが、筒井順慶によって選択され築城されたというものを、それは違う、信長が行ったんだということの資料的裏付け作業をされたようでした。


利用されている史料がも私とほとんど同じでしたので、作業も結果も同じになるのは当然ですね。


ただ、ひとつ私にはない、追加の部分があって、それが、順慶に郡山城を受け渡す少し前に、滝川一益が一度軍勢を率いて奈良方面まで来ているという、多聞院英俊の記事を紹介されているところです。


郡山辰巳氏は、最初から殺される予定だったのか、それとも、郡山立ち退きの説得工作をされていたのか。
それにかかわって、軍勢が出てきたのか。

という、興味深い話でした。

これらは、大和の国人研究にいい課題になります。
また、郡山城から西方一里ほどの矢田で生害されていることも課題の一つです。
矢田が、郡山衆とかかわりがあったのか。もしくは、筒井とかかわりがあったのか。


レジュメだけからでも、いろいろと想像を沸かせてもらえたので、ほんとに感謝です。




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2008年11月07日

知られざる郡山城史

告知です。

明日2008年11月8日 12時10分より
「矢田エリアの魅力づくり」と題してフォーラムが開かれます。

その中で、歴史講演会として、

『知られざる郡山城史〜筒井順慶はなぜ郡山辰巳氏を殺さねばならなかったか〜』があります。

講師は勢田勝郭さん。

11時50分から受付開始。
会場は、矢田コミュニティ会館↓
http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kurasi/sisetu/yatacom/tizu.htm



思いっきり、地元の人を対象とした講演ですが、ちょうど私の論文で扱っているところですので、仕事の都合がつけば行く予定です。
ぎりぎりの告知になりましたが、興味ある方は連絡ください。

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2008年04月12日

戦国大和のキーワード

中世大和の、画期となった様々な出来事を、キーワードと略解説としてまとめてみたので、参考にしてください。

永享の乱
1429年〜
これにより、興福寺の権威に束縛されていた大和国人がより独自な活動を活発化する。
南北朝の対立の後始末、幕府(足利義教)の大和介入。などもキーワード。
幕府方の尖兵となった筒井党と南朝方のとりでとなった越智党の戦い。


畠山氏の党争と応仁の乱
1440年代、筒井氏に内紛が起こり、大和の情勢も不安定になってきたなか、1400年代後半になると近隣の勢力争いの影響をうけて、大和国内の国人衆も、河内や京で起きる党争の、それぞれの派閥に分かれて戦います。
いわゆる、越智党、筒井党などの勢力争いが激化する頃です。


外部勢力の侵入と大和国人一揆
応仁の乱が落ち着くと、京の勢力は、大和での実権を握ることを狙って、たびたび侵入してくる。
それが、赤沢朝経であり、柳本賢治木沢長政らである。
過去には幕府方の大和支配の先方だった筒井氏も、外部勢力侵入により、各党と手を結ぶ事になり、大和国人一揆と呼ばれる体制がなる。
国人一揆は、協力して大和国外の勢力と戦い、大和をなんとか死守する。
これが15世紀(1400年代)末から16世紀前半の大和の動きです。


筒井順昭の大和統一と死
河内の勢力の力をかりて、筒井順昭が大和をほぼ統一したのが、16世紀中ごろ。
しかし、20才代にしてこの世を去り、幼い藤勝(順慶)が家督を継ぐが、10年後に松永久秀の大和乱入にあう。
ところで、この順昭の死に際しての逸話が、元の木阿弥。
さらに余談ではありますが、この元の木阿弥の逸話が司馬遼太郎の短編小説にでてきます。
『最後の伊賀者』に収録されている、「伊賀者」です。
あまり正しい歴史考証はされていませんが、司馬遼なので、十分楽しめます。
他に、『果心居士の幻術』も筒井家がでてます。興味のある方はどうぞ。

松永久秀の登場
永禄2年、いよいよ松永久秀が大和の支配に乗り出します。
このとき、大和国人一揆はうまく機能せず、久秀はあっという間に奈良の支配を現実にします。
奈良とは、現在の奈良県のことではなく、興福寺東大寺などの門前町として発達した大和の政治経済の中心地、現在の奈良市東部。
つまり、大和一国を現在日本に例えると、奈良の実権を握るとは東京都庁を征服した感じでしょうか。(国会議事堂まではいかないかな?)


辰市の合戦
その後、信長の登場により、松永久秀は始めその力を借りて大和をほぼ完全に手中に治めますが、大和国人のゲリラ的反抗にあい、また、三好三人衆などの反松永勢力とも手を組んで、争いは続きます。
そして、元亀2(1571)年辰市の合戦において、大和国人衆は松永久秀を大いに破った大和勢は、その頃信長に反抗していた松永方の首を信長に送り、織田政権の配下として生き残る道を歩むのでした。

この辺りのことは、過去のブログで沢山書いてきましたね。

今日はここまでです。
posted by taigon at 16:00| Comment(3) | TrackBack(15) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月17日

松永久秀の大和乱入

以前に紹介しました天理参考館の公開講座に行ってきました。

内容は、龍王山城及び、周辺の古墳の発掘の成果から、松永久秀が大和で影響力をもった、という話でした。
その松永久秀の築城に際する行為から、彼は神仏を恐れない男で多くの古代の遺物を破壊していた。と話が進み、最後は「文化財は大切にしよう」とまとめられて終わりました(笑)


得たものもありましたので、以下、少し感想を述べます。

まず、龍王山城の発掘の成果から、明らかに松永久秀による改築、拡張が認められること。
縄張りも極めて、松永久秀が大和侵攻に際して拠点とした信貴山城に似ていること。
以上のことと、前回の山川先生のご指摘、また過去の村田修三先生の論文などからも合わせて考えてみると、やはり、永禄年間の松永久秀の乱入で、大和は城郭史に関して言えば、一大変革があったことは否定できません。

私は、松永久秀の大和での業績に無関心すぎたようです。

筒井順慶と興福寺と信長の関係ばかりを追っかけていました。

考古学の世界では、大和での松永久秀の残したものは甚大であるようです。
龍王山の周辺では、多くの古墳をとりでとして利用した後があるが、それも久秀の仕事だろうと思われるということです。
最近銅鏡が大量に発掘されて有名になった黒塚古墳では、甥の金吾が柳本衆に滅ぼされたともありました。

ともかく、この辺非常に勉強不足なので、出直してきます。

ということで、今回はいい勉強になりました。

posted by taigon at 20:28| Comment(5) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月12日

発掘資料に見る大和

おそらく、私の卒論が、学科の研究誌に載せていただいてすぐだと思いますが、大和郡山市の教育委員会の山川均先生に見ていただきました。

その後、とてもご丁寧な感想と参考資料を送ってくださっていました。

直後に引越ししたために、失礼な話ですが、荷物の山にまぎれていたようです。
最近、過去に集めた資料を整理しているときに、発掘されました(汗)

中世大和研究、信長研究に役に立つ内容ですので、ここにその一部を掲載します。
2001年当時の内容でもありますので、そこを踏まえてお読みください。

大和の天正年間における代表的な発掘資料は、一昨年(1999)発掘調査が行われた橿原市今井町二重濠出土資料だと思います。ここでは、天正3年の信長と(本願寺との)和睦時、もしくは同8年の一国破城の際のものと思われる一括資料が大量に出土しています。
ただし、その他の発掘資料は天正年間のものはあまり多くなく、大和の環濠集落や城郭の廃絶年代は松永久秀が大和に乱入した永禄年間か、ずっと遅れて徳川政権が確立した元和年間の発掘による一括資料が多く認められています。つまり、発掘資料による限り、画期はむしろこの二つの時期ということになるでしょう。ただ、藤澤典彦氏によれば、奈良町の石造物を検討すると、天正年間に大きな画期が認められるそうです。


以上です。興味が湧きませんか?
少し解説しますと、この橿原市今井町というのは、現在も古い町並みが残される観光地ともなっていますが、その始まりは、一向宗の門前町です。町を濠で囲み成長しました。
この手紙にも載っています発掘調査の資料も一緒に送ってくださっていましたが、二重の環濠跡が見つかり、さらに、天正年間に一度意図的に埋められた後も見つかっています。
埋められたのが調査の結果16世紀後半ごろだと断定できるので、おそらく、1580年前後である、本願寺が織田信長と和睦した天正3年か、このブログの主題でもある天正8年の一国破城による埋め立てか、ということに仮定されるわけです。

いずれにせよ、織田政権とのかかわりで、濠は埋め立てられたといえます。
また、発掘成果では、埋められて直後に改めて一重の濠が掘られています。土居などもあわせて作られ、新しい町を形成している過程が見られています。

天正8年の信長の命令は、
―破却内容は「作事」面にとどまり「普請」面にまでは及ばない―
というのが、あります。つまり、建物を壊すが、濠は埋めないということになろうかと思います。


さて、ここでいくつか分かることがあります。
・山川先生の手紙にある、「実は天正年間の資料は少ない」という点。
・信長の命令が「「作事」面にとどまり「普請」面にまでは及ばない」という点。
それぞれをあわせ考えると、まず、今井町の堀の埋め立ては、天正3年だったと思われる。
次に、天正8年の破却では、筒井順慶が責任者となって行われている点も踏まえ、
おそらく、敵殲滅のような荒々しい破却行為ではなく、日常生活に支障の出るような破壊行為や生活などに必要なものまで破壊するという面はなかった。
つまり、土塀や櫓は撤去されたとしても、生活空間は維持された。と考えられます(だから遺物などが出にくい)。

このように見てみると、信長の意図が少し分かると思います。

信長としては、本願寺との戦が終わり、畿内での勢力図が新しくなるのに合わせ、
まず大和では国内での小競り合いをなくし、筒井順慶の元に一つの軍団であることを認識させるために、小競り合いを想定した形の多い大和の城館を無用のものとし、大和一国の政庁と本拠を構えるべく、郡山に近世城郭を普請した。

これは、過去に伊勢や河内などで行った破却とは意味が違います。伊勢などでは明らかに敵殲滅のための破却であったと言われています。また、摂津や河内には、信長自身が、対本願寺戦用の付け城を大量に築いています。これらも、無用となるので、破却しているのではないでしょうか。
それに比べて、大和では、「厳重の急」をもって実行はされたとしても、殲滅状態ではない。
それは大和の国人である筒井氏に国を任せ、大和の国人たちで編成された軍団を作るのが前提だったから。
とことん破壊されてしまうと、新軍団どころじゃありませんから。地元からは引き離そうとはしたかもしれませんが。

と結論付けられます。


さて、2001年以降の中世遺跡の発掘状況はどうなっているのでしょうか。今後はそのあたりを調べてみたいと思います。
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2008年02月29日

大和ハ神国ニテ

1月6日
大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、「或人物語」により旧冬(天正9年冬)に織田信澄(「小田七兵衛殿」)が大和国拝領を直訴したところ、織田信長(「上様」)より「大和ハ神国ニテ往代ヨリ在子細」というので「無用之訴訟旨御気色」であったため重ねての懇願を止めたことを知る。〔『蓮成院記録』三〕

http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho16.htm
より転載しました。

この「蓮成院」の文書は活字になってて、図書館に行けば読めると思うので、今度改めてコピーしてまいります。
手元から消えてしまったので。

この史料ではどこの誰から聞いたと詳細が書いていないのが難点ですね。
さて、信長はどの程度、本気でこんな事を言えたのか。
posted by taigon at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月16日

雪の朱雀門

2008_02102-120009.JPG

信長どころか、戦国時代でもなんでもありませんが、
先日、雪の平城京跡をあるきました。

雪の朱雀門は、光を浴びて、まぶしかったです。
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2008年02月02日

多聞山城からの眺め

先日、奈良町、興福寺、多聞山城に行ってきました。
車に折りたたみ式の自転車を積んで、京終(きょうばて)にいき、そこから、多聞山城までサイクリングしてきました。

この道は江戸期に上街道と呼ばれていた道で、興福寺から桜井市まで続いています。

古代の上ッ道ともつながるようですが、奈良市のほうでは、少しずれているようです。


naramati.JPG


さて、上街道、興福寺、多聞山城は、ほぼ一直線で結ばれています。

このブログでも以前に紹介していますが、
興福寺は、中世大和の守護の立場でその権威を維持し、支配していました。
多聞山城は、そんな大和に侵攻し支配をもくろんだ松永久秀の手によって築城された城です。
また、松永が信長にそむいたために、一時信長により奈良支配の拠点にもなったところで、改築などもされたといわれています。

実際に自転車で移動し見ると、多聞山城は本当に、奈良の寺社勢力にとっては目と鼻の先。目の上のたんこぶという感じでとても目障りです。

現在は若草中学になっており、黙って校内に入るわけには行かないので、その門の前から奈良の町を眺めてみましたが、大仏殿、興福寺五重塔などが見えます。

wakakusa.JPG

信長が正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)を切り取りに多聞城に訪れた時は、東大寺大仏殿は、戦火に焼け落ちたあとだった事を考えると、この風景の先に見えたのは、無残な大仏殿周辺の姿だったのではないでしょうか。

daibutu.JPG


よく、松永久秀により、天守閣の元になる高層の櫓が建てられたともいわれていますが、目の前に興福寺五重塔、大仏殿などが見えると、わしもいっちょああいうのを建てるか、と思いたくもなりそうです。

また、興福寺などからも見えたでしょうから、その光景に、抗し難い気持ちがうまれたかもしれません。

koufukuji.JPG

本文で、色々な城や、寺社などを紹介していますが、実際に歩いたりしたところというのは実は少なく、今回もはじめて多聞城跡を訪れました。

こういうイメージを膨らます事が出来たという事は、とても有意義で、大切な事だと思い、今後も続けていかねばと感じた今回の訪問でした。
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