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2008年10月15日

大和郡山城の意義

さて、改めて、私の一昔前の卒業論文、
「織田政権と大和」から考察していきましょう。

最近数回は、ブログの題名通りに織田信長を考えてこれていたと思います。


さて、スポットをあてるのは、やはりここ

大和の地に「武家による新しいシンボル」大和郡山城建設した意義。です。


もし織田信長がもう少し長生きしていれば、天正8年大和で行った城割と指出検地の政策は
きっと、後世に大きな政権の転機、もしくは政権の特徴的出来事として扱われたことだろうと、思っています。
例えば安土城が、後のいわゆる織豊系城郭の先駆けとして、研究が進められているように。


郡山城が、郡山の地に建設された意義を簡単に説明すると、
長年大和の中心として繁栄し、寺社が守り、古代から中世の権威の象徴のような、「奈良」という地に対して
武家政権により新しく、政治、経済、軍事、すべての面においてその中心としてのシンボルとして建設された。
それが、郡山城だった。

ただ単に新しい城を築くだけでは、そういうシンボルにはなりえません。
そのために、信長は事前に周到な準備を行っています。

それが、大和国内のすべての城を破却するという命令です。
軍事的な敵対勢力の城を破壊するのではありません。
れっきとした信長の家臣であるはずの、筒井順慶の本拠、筒井城もいのいちばんに破却されています。

郡山城を信長が重要視していたことが分かります。

また、大和国内の年貢高を確定させるために、検地をおこないます。
指出という手法ですが、寺社武士など漏れることなく、前年の年貢高が詳細に信長に報告されています。


この後すぐに、本能寺の変がおこり、信長が死んでしまうのですが、
もうしばらく生きていれば、郡山の城下町政策についても、いろいろと指示が出たのではないだろうかと思います。

本能寺の変の後も筒井順慶が郡山にあって、大和の支配を行っているのですが、
詳細な高札などがかけられたという資料が、今のところ私は知りません。

もし、そのようなものが残っていれば、必ず、岐阜や安土のように、大きな信長の研究対象となったことでしょう。

それが、残念です。



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2008年10月07日

あやふやな組織

この表現は正しく私の考えをあらわしてはいないんですが。
とりあえず、使っておきます。あやふや。


人間の心なんていうのは、常に揺れるものです。

信長が作ろうとしたのは、

「自分にとって一番都合がいいもの」

だったのではないでしょうか。


信長が思う通りにことが運ぶように、形を作っていく。
でも、思い通り運ばないところは、とりあえず現状維持。
詰将棋みたいなもんでしょうか。


信長の意志だけが反映されるので、あっちとこっちでやることも、また時期によってやることも、統一性がなく、一過性になるのではないでしょうか。

ただし、あやふやなのは、「方法が」であって、「目的が」ではない。

目的は、常に、信長の信長による信長のための、最強の軍団を作るためにその瞬間一番合理的な方法をとっているともいえます。


ですので、戦国大名的でも、近世的でもないのであって、信長的なんではないでしょうか?


古い織田政権関係の論文を読んで、個別の政策などで信長論を解釈しようとすると、千差万別になってしまうのは、これが原因なのでしょうね。


こんなこと、もっと早く気がつけばよかった。

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2008年09月29日

『信長とは何か』 雑感2

前回に引き続き『信長とは何か』の感想を続けたいと思います。

織田信長は、どこまでも軍事的勝利が至上命題だった。

全章を通じて展開されるこの話題。
それは確かにその通りだと思いました。

信長が行った事は、全てにおいて勝ち続けるための政策、と読んでしまってもいいくらいです。


本能寺で斃れた後の、あっけない信長家臣団の崩壊を見ても、
組織立てた、織田政権というものが存在していたとは言いがたい。
と結論付けられているのをみても、ああ、確かに、と感じる。



自身がこのブログで書きながら、織田政権という政権は、いったいどういう構造をしていたのだろうか、といつも思うわけですが。

ものの本にも、様々な評価がなされていて、直ちには理解が進まない。


一つ閃いたことは、
織田政権という、統一された組織だった政権は、なかった?
あやふやなのが、織田信長の組織だ。

で、いいんじゃないかということでした。


つづきは、次回。







posted by taigon at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月17日

神田千里 石山合戦と信長

『歴史読本』8月号の記事に、表題の記事があります。

信長と本願寺の戦について、通説に疑問を投げかけて、新しい説を出しています。

今や定説となっている、信長が大坂の地を欲したのがそもそもの原因だというところを覆されています。

大坂を欲していなかったのに、なぜ10年もかかったのか、という理由にも答えを出しています。

それは、三好とのつながり、足利義昭とのつながりということです。

信長から仕掛けたのでもなければ、信長が求めて争ったのではなく、本願寺のほうから、常に仕掛けていった。それは、三好や義昭による、信長包囲の一助だった。

ということのようです。


逆に、信長が本願寺に対してどう思っていたのか。
一向門徒が、攻めてこなければ、存続を許す気はあったのか?
協力者となれば、許したのだろうか?


これらの問いと、答えは、対大和の研究の上にも欠かせない課題であると考えます。


例えば、信長がすべての寺社勢力にたいして、比叡山に行ったような焼き打ちをしていれば、本願寺も必ず滅亡させられたと考えられます。

しかし、大和の寺社のように、安堵された勢力もあります。
さらに、新しく大和を支配する城を、奈良の中にではなく、郡山の地に求めています。

世間でよく言われる、信長が死ななくても立派な大坂城を建てそこに移ったはず。というのは、成り立ちますでしょうか?
しかし、本願寺が退去した事実があるので、その地は誰にとっても魅力的なものであったはず。大坂城はできたでしょう。

しかし、本願寺が仮に、信長の協力者だったらと考えると、
いろいろと他の可能性もあったんじゃないだろうかと、思えてきます。


まあ、歴史に「もし」を持ち出して、想像するのはよろしくありませんので、
本願寺と信長は戦ったことは事実。

その理由やなぜ、あれほどの期間を要したのかを、もっと研究していく必要は、まだまだあるように思いました。
posted by taigon at 19:16| Comment(2) | TrackBack(1) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月08日

歴史読本08年05月号

歴史読本の今年の5月号には、織田豊臣の城を歩くということで、
織豊期のいわゆる、「織豊系」と呼ばれる城郭の解説が細かくされています。

私のブログに興味のおありの方々は、必見でしょう。

また、私の主題である、「大和一国破城令」の解説も少しだけありました。

その中では、破城がどこまで行われたかということで
「作事」つまり、建物のそれも軍事的なものを取り壊しただけで、生活の空間や、堀石垣などは埋めたり崩したりしてないだろう、といった話でした。

最近の記事にしては、特に真新しいこともなく、少し退屈なものでしたが、入門にはいいかもしれません。

まだ、少ししか読んでいないので、また何か報告することがあれば掲載したいと思います。
posted by taigon at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月28日

城山と墓域

皆様お久しぶりです。
なんとか一週間に一度は更新していければと思います。

さて、今日の話題は、今朝の新聞記事から。

今朝の奈良新聞、シニア瓦版という欄で
「古代地名の伝承」という連載が始まりました。

そこで、今日の話題である、「城」という漢字は墓域の意味もあるということ。

卒論の本文では、大和郡山城のことを主に扱ってることまって、
城ということばには敏感です。


さて新聞記事の内容からですが
城=墓域について、例えば古代の古墳の後の地名に「城」入っていたりするようです。

となると、近世や明治期の古地図を見て、「城」が入っているからといって、
安易に、中世の城後に違いない!と決断するのは早合点であるといえますね。

例えば、先日の記事で古墳と中世城郭の話題でもありましたが、
戦国大名の古墳を利用した城作りなどの研究でも今後の注意として、必ず古代の地名にも注意して、その地の地名がどのように変遷して行ったのかを明確にした上で、例えば近世になって城の名前がつくようになったとか、そういうところから、探るなどの仕事が必要であると感じました。

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2008年05月19日

松永久秀の研究

先月に、とある方から松永久秀関係の、最近の論文二点お借りしました。

村井祐樹「松永彈正再考」 2006.11 『遥かなる中世』
金松 誠「松永久秀について」 2006.5 『織豊系城郭の成立と大和』

(実は、この『織豊系城郭の成立と大和』は、本ではなくシンポジウムのことで、このシンポジウムには、行きたかったのですが、どうしても時間がとれずレジュメだけもらっていました。そのレジュメだけでは十分にやはり理解はできなかったのですが、小冊子として改めて発行されていたのをお借りして読むことが出来ました。)


まだ、ざっと目を通しただけでじっくり検証してませんが、とても丁寧な仕事をされています。
資料(史料)が豊富で、松永久秀を研究するなら必ず手元においておくといいでしょう。
また、戦国大和、織田信長研究の方も、必読です。


さて、金松氏の方から2,3メモを残しておきます。

松永久秀の活動の年代を分けて見ますと、4つに分けることが出来ます。
すなわち、
1.三好家の家臣として初めて史料に現れる天文年間(9年)から、大和に侵攻する永禄2年。
2.大和で、多聞城を築き戦国大名的存在として実質支配する永禄3年から永禄11年信長の上洛まで。
3.永禄11年から天正2年多聞城を退去するまで
4.多聞城退去後天正5年信貴山で自害するまで。


簡単に補足すると、
1三好家の一家臣としての久秀。
2都市、京、奈良を支配する久秀。
3織田信長家の大和大名としての久秀。
4まったく実力を失ってしまった晩年。

となります。

この論文はとても面白いので、よく読んで、機会があれば改めて紹介したいと思います。


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2008年05月05日

戦国期の畿内を理解する

三週間ぶりの投稿です。
みなさまご無沙汰しております。

早速ですが、表題。
「戦国期の畿内を理解する」こととは、どういうことか。

いきなり結論からですが、戦国時代の近畿は、現代社会に通じる人間感情が存在しているといえます。


戦国時代ファンの方々は、みな贔屓の武将なり大名なりがいると思います。
当然、オラが国の大将に惚れる人も多いでしょう。

そんな中、近畿の武将のファンというのは、他に比較して、そんなに多くはないと思います。
それはなぜか?

戦国時代が到来しても、機内での武将たちの動きは、前代的な権力闘争を繰り返しています。
つまり、誰が幕府権力を実質支配するか。という点です。

それに対し、地方では、一円支配、領国支配が始まり、一般に言う大名領国制が整備されていきます。
英雄が生まれ、混沌を統一へ向かう力が働いていました。

しかし畿内では、ここにいたっても、旧来の権門の影響が色濃く残っているのです。
朝廷、将軍、寺社。
彼らの影響下で育った武士たちは、一言で言えば「ウマミを得るため」に戦います。

どういうことかというと、
政治経済の中心地であり、貨幣経済が発達し、既得権益があふれ、情報が交錯する先進地でした。
そこでは、「今うまく利益を得るためにはどの派閥につくべきか」が重大な関心事であり、お互いを利用し合い、捨て駒にしていくのが常でした。

室町期では、時々、大内氏などの西国大大名がその武力で、混乱を平定に来たりしますが、領地内での支配体制を固めるのに領国外の事にまで手が回らなくなると、いよいよ畿内での混乱は増して行きます。

将軍足利義輝暗殺に至りその極みに達します。
義輝暗殺に向かうのは、一般には、三好長慶が倒れた後の勢力争いの中、起きたといわれています。
三好長慶が実質的に支配していた時は、新しい体制が訪れようとしていたとも言われています。
しかし残念ながら、その道半ばで病に倒れます。

三好氏は、四国を本拠に持ち、軍事力で細川家の家臣として実力を持ち始め、近畿で影響力を有すことになります。

長慶の代にいたりもっとも繁栄の極みに達しましたが、その死後、実力ある後継者に恵まれず、畿内は再び混乱期に入り将軍が暗殺されるという事態にまで発展したのでした。


長慶は別にして、その多くの畿内の武士たちは、目先の利益に目を奪われて、争いを繰り返し、また、既得権益を横領された旧権門の者たちも、とにかくその時々の実力者に媚びて、権益復活を要望するので、それぞれがそれぞれの思惑にのって暗殺、戦争、駆け引きが頻出し、とても分かりにくい状態を作り出しているのが畿内でした。

まさに、今の国会や経済界のようです。

地方では、一人の実力者により政治機構や流通経済の仕組みまでを合理的に組み替えて、新しく分国法なるものを制定し、排他的支配に乗り出します。
しかし、畿内では、いつまでたっても、新しい支配体制を確立するに至れなかったのでした。


ところが、三好長慶により旧体制が少しずつ切り崩され、その途中で長慶が斃れ、将軍が暗殺されると、大きな政治的空白状態が起こります。

そこに颯爽と現れたのが、織田信長だったのです。
英雄の登場です。


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2008年04月09日

戦国時代の終結 中世から近世への移行

さて、ここ数回は、大和や興福寺について中世から近世への過渡期を扱う研究論文などを紹介してきました。

次回に、一度、中世後半の大和について、キーワードをつかって分かりやすいように整理する予定ですが、今回はその前に大和の過渡期のについて、自分なりの解釈を少し書いておきます。

このブログを書きながら、過去に集めた資料や、新しく著書やネットで得た知識から、私は、やはり永禄年間の松永久秀の乱入と、天正13年の豊臣秀長入部をもっと研究する必要があると痛感しました。

天正8年(1580)に大和で行われた、織田政権による破城と指出検地は、織田政権の研究にとっては欠かせないものです。また、大和にとっても新しい政治体制がスタートした画期となっており、非常に大事な年です。

しかし、その成果を見ないまま、信長が倒れてしまい、にも関わらず、筒井順慶がその後も大和を統治していたという結果となり、どこまでが信長の意思による政策だったのか分かりにくくなっています。
織田政権研究からみた研究の限界がここにあります。


そこで、必要になるのは、大和の中世から近世への移行という研究です。


その意味でまず必要になるのが、永禄2年から大和に侵攻し、信貴山、多聞山と、二つの拠点をもち、大和を統治下におこうとした松永久秀の政策実態がまず、解明するべき一つ目の課題です。

次に、天正13年の豊臣秀長の行った政策実態の解明です。

豊臣秀長の研究は、近世の研究として比較的進んでいるように感じます。

しかし、松永久秀の研究はそれほど進んでいるとはいえないのではないかと思います。

また、永禄年間から、天正末期までを統括的にみた研究もあるのだろうか?という感じです。一歩進んで、江戸幕府に至るまでの研究。


そこで私は今後取り組もうと思う、明確な二つの課題を上げます。

一、松永久秀。
松永久秀の、大和乱入は、彼の単独行動なのか?
信長上洛以前の大和での行動は、具体的にどのようなものだったのか?

そして、今ひとつ。
多聞院英俊。
天文から文禄という、中世から近世の移行期に大和で多くの情報を得続け、記録を続けてきた彼個人の、人物をとりあげた研究は必ず役に立つものだと思うのです。


直ちにこのブログでその成果を掲載できるかどうか分かりませんが、情報だけは求め続ける予定です。


そして、これは歴史の研究という大きなテーマにとっての課題ですが、
やはり、当時生きていた、民衆側からの実態も調べ続けたいと思っています。


これらから、大和にもあった戦国時代。
そして、中世から近世への過渡期という、混沌を探りたいと思います。
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2008年04月04日

中世興福寺終焉期の研究

今回から、興福寺の終焉を扱った論文をいくつか紹介します。

最近は、卒論を書いた頃にとった論文などのコピーを読み直しています。

前回紹介したものの他に、

「16世紀後半の奈良における貨幣流通-多聞院日記にみる支払手段の変化をめぐって-」浦長瀬隆

「興福寺の「枡の体系」と京枡使用令の構図」河野昭昌

「近世興福寺領覚書、内部構成と支配倫理の特質」幡鎌一弘

「戦国期大和の権力と在地構造―興福寺荘園支配の崩壊過程―」安国陽子(と思うのですが、コピーなので題が無いのです。すみません。)


を読みました。

今日はまず、浦長瀬隆氏の論から。

これは、簡単に言うと、
多聞院日記の購買記録の支払方法を、永禄8年(1565)から文禄5年(1596)までの時期を一覧して、その特性を求めているもの。
結論は、
支払方法が、4期に分けられ、T期は永禄8年から永禄11年。U期が永禄12年から天正14年、V期が天正15年から文禄元年。W期が文禄2年から文禄5年。となっています。
そして、T期が銭取引中心、U期が元亀2年以外、米取引中心、V期が銭の取引中心、W期が再び米になる。

となっています。

さて
これを、見て、近世大和研究されている方なら、一目瞭然。
永禄11年は、信長の上洛。
天正14年は、前年に豊臣秀長の大和郡山入部。があります。

ところで、普通、このT期からU期への銭から米に取引が変化した理由を「信長の選銭令」にもとめられることは、私の卒論にも書いています。

さらに、「興福寺の「枡の体系」と京枡使用令の構図」という論文を読むと、次のU期からV期への移行期も理解が深まります。

興福寺は米を計る枡を、使い分けて、その差益を生み出すという技をもっていました。
すなわち、徴収する時は大きい枡を、出て行く米には小さい枡を、と。
例えば、同じ一枡でも、入るときより出て行く量が少ないので、手元に残るわけです。なんと意地汚い。

しかし、その私枡の使用が、天正14年に豊臣秀長によって停止され「京枡」の使用に統一変更するよう、大和で令せられます。
これは、この方の研究では、奈良の経済を弱めるための政策だとされています。
その理由は「売買枡」の私枡の使用禁止が言われているからです。

となると、先の天正14年より、急激に、銭取引が増えることと関係がありそうではないでしょうか?


さらに、安国氏の研究については、色々思うところがあるので、また次回としますが、天正8年の指出、破城の両政策が、興福寺支配の直ちに否定には繋がらず、天正13年の秀長入部を待たなければならなかったということです。

こうしてみてくると、寺社の経済活動や政治活動は信長の上洛後、完全に織豊政権の政策の影響をもろに受けているのが分かります。


実際の、中世興福寺の終焉は、天正13年の筒井氏の伊賀転封、秀長大和入部と言える。というのが、大方の意見であり、また後日、安国氏の研究などについても述べます。

中途半端ですが、今日のところはここまで。
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2008年04月02日

織田信長の対寺社政策

織田政権の寺社に対する政策の基本姿勢について。

2000年の『史林』に朴秀哲氏が発表された論文
「織田政権における寺社支配の構造」がとても分かりやすく読みました。


信長の対寺社政策を、年代的に整理し統計、その方向性を見出すことを目的としておられます。

元亀二年、天正三年、天正八年、天正十年に、それぞれ変化があることを認められ、特に、天正三年と、天正十年は、大きな画期となったとされています。

つまり、天正三年は、天正元年に将軍足利義昭を追放し、いよいよ織田政権としての信長路線が始まったとき。
天正十年は、天正八年に本願寺戦が終結し、巨大な敵対自社勢力が激減したとき。

上洛以前また、上洛後も、信長は基本的に、寺社保護政策をしている。
しかし、信長と義昭の仲が悪化し始めた元亀年間、敵対する寺社を弾圧、味方する寺社を保護する。その典型が叡山焼き討ち。
この路線は、宗派など関わらず徹底され、寺社それぞれ個別に、敵か味方かで対策が決まる。
また、保護した相手には、礼銭を要求した。これは従来の慣例でもある。
そして、寺社の持つ兵力も期待し軍事的忠節を求めた。

しかし天正三年以降は、徹底的弾圧が激減する。
また、個別の対策ではなく、一地域における一括的保護などが見られる。
それでも、敵は弾圧、味方は保護。の路線は最後まで変わらなかった。

天正八年、本願寺屈服後は、寺社の軍事的忠節の要求がなくなる。

天正十年に至り信州で、取次銭の禁止、礼銭免除の政策になる。



大体以上なのですが。
あまり大和のことは出てきません。

ただし、路線通りなのは間違いないと思います。

注目すべきは、織田政権の方針では天正八年以降は、礼銭つまり、金銭的要求がなくなること。

つまり、私の寺社には、矢銭を要求したという論は成り立たない。

・・・


ところで天正八年以降の軍事的要求も減るという点について。
大和の国人のことを、興福寺は寺門の内のものと見ていたが、信長はそうは見ていない。

ここから文章的な表現が難しいのですが、少し思うところを書いておきます。

叡山の焼き討ち。本願寺の徹底殲滅。
彼ら、殺戮された面々は、別に上層部の僧だけでなく、前面に立つ、武装した兵がいたわけです。
彼らは悪僧として、なで斬りにされた。
また、逆に、味方についた寺社からの武力も、上層部の僧が出陣などしない。

となると。
「大和での寺社に要求する兵力とは、取りも直さず、衆人になる」

と言ってもいいのでしょうか?それともこの発想は、間違いになるのかな?


軍事的要求をしなくなったのではなく、
寺社が動かしうる兵たちが、寺社の後ろ盾を持つ兵でなく、武家として独立し、信長の兵となってしまった。

というのが正解では無いでしょうか?
大和での天正八年の政策がそれを物語っている。

となると、寺社はその経済基盤となる所領は安堵されたように見えるけれども、以前にも書いたとおり、それを(実利的にはそうでなくても観念的には)管理させていた武士を、兵力ごと経済基盤も信長にもっていかれ骨抜きにされために、寺社には金銭、武力とも要求する必要性がなくなった。

と結論付けてみました。

いかがでしょうか?

そして、天正十三年の豊臣秀長が大和にやってきて、大和在地の国人たちが移封されてしまった結果は、既に信長が見越していたとも考えられます。
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2008年03月31日

興福寺の立場

研究によれば、興福寺の守護職も怪しいという。

どのように怪しいかといえば、本人以外に、「大和の守護は興福寺なり!」とはあまり大きい声で言っていないから。

しかし、本人(興福寺)は大和の守護はわれわれである。
と自分自身に言い聞かせていたのは間違いないので、大和では、一応守護として成り立っていたのだろうと思う。

さて、前回、筒井順慶は、一体何者なのだろうか?と問いました。

天正4年に信長から大和の国を任せおかれた。
天正8年からは、一国を支配する城まで与えられた。
織田軍団の一人の将として各地ではたらいている。

にもかかわらず、多聞院日記を読めば、順慶を何かと興福寺の寺内のものとして扱おうとしている。



ところで、話は横道にそれますが、以前に、寺門は信長とどう関係したのかという点について。
全く、信長の支配下にいたと考えて良いと思えます。
信長の文書は見てませんが、興福寺側の記録にははっきりと「上様」と書いてる。


話は戻して、順慶と興福寺。

人は二つの組織に所属できるのである。
ということなのではないでしょうか?

おかしなたとえ話をしますが、

順慶くんは、「コウフク町」の町内会野球チーム「コウフクテンプルず」のエースで四番、しかもキャプテン。いつもみんなのまとめ役。試合の時も大活躍。英俊監督も何かと頼りにしてる。
しかし、大学を卒業して、大企業「オダコーポ」に就職。
仕事もバリバリとこなし、しかも企業の野球チームにも所属してる。
でも、最近地元にある「オダコーポコウフク支店長」に抜擢されて、町内会にも意見を言うようになってきた。でも、ここの前支店長はよそ者で、町内会でもいい思いはしてなかったから、順慶君が支店長になったときは町内会みんな喜んだ。
順慶君は「コウフクテンプルず」にも相変わらず顔を出して、キャプテンとして日曜日なんかはチームをまとめてくれる。
あるときなどは、「コウフクテンプルず」からその企業にいい選手の斡旋までしてくれるようになった。
「コウフクテンプルず」の監督は、ホクホク顔で順慶君を今も頼りにしている。
「コウフク町内会」の別当会長はいつも、順慶君が活躍してくれることを期待している。

なんて。
ちょっと分かりにくいですね。


結局、恩師とか、師匠、監督、などなんでもいいんですが、そういう人たちは、
弟子がどれほど偉くなっても、弟子なんですよね。

今や織田信長の武将として期待されている筒井順慶を、興福寺側ではいつまでも寺内の官符衆人としておきたいわけです。

外部の人間が、仕切ったのでは困るのです。
外で活躍しようと、わが町出身者が、うちの支店長に故郷で活躍するのがいいのでしょう。


つまり、どちらに転んでも、興福寺は自分で大和の支配者と思ってるし、そうありたいと願っている。
筒井順慶は、寺内のもので、今をときめく織田政権の立派な武将となって、活躍して、興福寺の権威をそれを元に上げてくれたらと思っている。

ようは、そういう発想なのでは無いでしょうか。

これらのことを理解したうえで、信長は筒井順慶に大和の一国を支配させたのでしょうか?

この信長の発想だけが、未だに完全に解決し切れません。

もしかすると、順慶に大和をゆだねるように進言した武将がいるのかもしれません!
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2008年03月30日

筒井順慶の立場

さて、今日はまた、前回と矛盾したことを書きます。

毎度毎度矛盾した話ばかりですみませんが、気長にお付き合いください。


さて、表題「筒井順慶の立場」とは、「織田政権と大和」本文でも何度か扱っていますが、つまり、「官符衆人」についてです。


何度か解説しましたとおり、中世大和の守護は興福寺です。
そして、他の国で言う守護代にあたるのが「官符衆人の棟梁」です。

その官符衆人は、20名が三年興福寺に常住して、治安維持などに当たるが、筒井家が棟梁となることが多かった。
順慶の父、筒井順昭も「多聞院日記」では「官符」としている。


少し話は変わりますが、前回私は、
信長は寺社に矢銭という軍資金(つまり経済的)要求を求めたのだろう。
としました。

が、果たしてその役目、全うしえたのか?と思った方はおられませんか。

つまり、寺社の荘園は、大和の国内の分においてはその多くが、一国破城によって再編され信長軍団により強固に配属されたであろう国人たちが管理していたのだから。


ここで、難しいのは、多聞院日記に見える、寺社門領と国人領を明確に分けてその石高を記しているところですが。

当時私は何の不思議にも思わなかったのですが、国人たちの指出で認められた領地に、筒井家ほか主だった者の分が無い。

私が本文で虎屋のところで引用しているように、興福寺ではまともな祭事もできていなかった。
何かに付けて、筒井など武家筋に負担を要求して、祭事などもしていた。

この複雑な構図になりたっている立場なり、金銭の流れなどが、はっきり言って私の中で咀嚼し切れていません。


ともかく、前回と今回の課題の中で、
やはり一つだけいえることは、信長は寺社と国人を解体しようともくろんでいたはずだということ。


そこで、際立つのが、
織田政権での「大和国守護(的立場)」の筒井順慶でありながら、「興福寺官符衆人」の筒井順慶である。


詳細はまた次回。
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2008年03月28日

信長の収入源

織田信長の軍団の源はなんだったのでしょうか?

「織田政権と大和」で得た答えをもう一度振り返ってみます。

信長は、本願寺との戦が終わると、大和の国に二つの命令を出します。
一つは、城をすべて破壊し、郡山城一つにすること。
一つは、大和一国規模の検地(指出)を実施し、大和の米の年貢高を把握する。

どちらも、直接信長から命令がだされている。
実行者は、城割りは、筒井順慶。検地は、滝川一益、明智光秀。

どちらも、大和一国規模でされている。

どちらも、「郡山城」、「石高での書き出し」という、新しい統一規格を示している。

その結果。
意外なほどあっけなく、それぞれの所領は安堵。郡山城には、「大和の国人」筒井順慶を置く。

新しい方針の元に、旧来のもが温存されました。


信長は、何をしたかったのか?


このとき、信長にとって必要だったのは何か?大和に何を求めたのか?
というのが、ポイントでは無いでしょうか?

上洛以来、信長が大和に課してきたものといえば、大寺社に対しては、矢銭を要求しています。軍事資金です。

つまり、安定的な年貢ではなく、その時々必要な現金をとるのです。
それとは別に、大和の国人からは、実際に戦争する兵士と武器(つまり軍隊)を得ています。

ここで、注意しないといけないのは、本来、大和は寺社の荘園を背景にうまれた僧兵を中心とした、寺社の持ちたる国であるはずです。
筒井順慶などは、僧体なのです。

中世大和では、寺社と国人は、切り離せないのです。

しかし、信長は切り離そうとしたのではないでしょうか?
天正八年の政策によって。

信長が必要で求めたのは間違いなく、軍資金と、軍隊です。

つまり、信長は、従順に言うことを聞く大和からは、今は取れるものをとっておこう。という発想だったのではないでしょうか?

さらに
中世大和のように、お寺の言うことを聞く、軍隊ではなく、俺(信長)の言うことを聞く、軍隊が必要だった。在地に根ざす国人ではなく、信長の軍団としてのシンボル近世大和郡山城を作ろうとした。

寺に、兵を用意しろというのではなく、俺の部下である大和国軍。そして、俺の言うことを聞いて軍資金を提供する寺社。当面は、それでOKだったのでしょう。まだまだ戦うべき敵はいる。湯水のように、兵士と資金が必要だ。
さすがに、滅ぼしばかりいると、新しいものを構築するのに体力が必要になる。今十分に活用できる状態にあるものはとにかく、使い切る。

大和に課した政策から、そんな側面が見えます。


ただし、注意しないといけないのは、中世の大和の国人も独自に戦争していました。国外勢力が大和の国人に兵を要求する時も、興福寺を通して武士が動くわけではありません。しかし、大和の武士たちは、自分たちは神国大和の兵だという意識があったと言われています。信長は、長期的にそれを解体していこうとしていたという意図を私は見るのです。しかし、それは本能寺の変で信長が倒れたため実現しませんでした。


一つ。
大和の寺社は、信長から、命令されたのか?要求されたのか?協力を要請されたのか?
文書を一度読み直して、その形式を調べなおしてみたいと思います。
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2008年03月09日

信長の教養

前回紹介しました、本郷氏の『武士から王へ』は私にいろいろと新しい想像力を与えてくれました。

直接信長に関するところなどはほとんどありませんでしたが、「国家」「王権」という考え方は、中世を考える時にポイントになります。

天皇の権威についても、以前より興味があるので、脇田晴子氏や、網野善彦氏の著書なども、少しですが読んでいました。
また、もともと、鎌倉前後には疎かったのですが、本郷和人氏をはじめ、奥さんの本郷恵子氏などの著書に触れることで、中世前期についても少しですが、知識を得ました。


そこで、考えることですが、
例えばものの本を読めば、「信長が源頼朝に倣って」とか、つまり信長が先例にならって物を進めたりする、ということも載っています。


ふと思ったことですが、そもそも、信長の教養はどこによっているのだろうか?

ということです。


例えば、以前にも書きましたが、先例に倣って切り取った「蘭奢待(らんじゃたい)」。
例えば、右近衛大将から辞任後、将軍になった頼朝に倣ったとか。
政権交代思想から、足利源氏の次に平姓を名乗ったとか。


これらの思想教養は、当時の武士なら誰もが有していたことなのか。
信長が、上洛後に身につけたりしたものなのか。など。

教養人の文人家臣も多かったので、その助言を聞いてもいたのか。など。


このブログでも紹介している、「大和ハ神国ニテ」の言葉についても少し思うところを。

その後の言葉は「国人」に任せると続くのです。
またいずれ詳細に検証したいと思っているのですが、信長は、上洛前から松永久秀と連絡を取り合い、久秀に大和を任せるつもりでした。
その後も、塙直政などの家臣を大和に配属します。しかし、最終的に筒井順慶に落ち着いた。
その直後の言葉が上の内容であるとすると、信長は、実際に畿内の情勢に触れる事によって、それらの知識を学び身につけたとも考えられるわけです。

そうであるとするならば、
あくまでも想像を逞しくしての仮定ですが、信長の政策や人事は、常に自らに身につけた最新の知識と教養に基づいて、常に修正が加えられ、たとえ大きく斬新な政権の構想があったとしても、その時々のもっとも重要視される事項以外は、先例や慣例にのっとって、無難な道を選ぶことも多かったのではないか。

と思われます。

さらに、付け加えて言うと、
詳細な統計をとって調べたわけではないので、これが正しいとはいいませんが、勝手な想像では

「敵か味方か」で、さらにその政策の方向性は決められているのではないか。思われます。

たとえ中世的だったり古いしきたりだったとしても、改革の急を要しない場合、さらに敵では無いと判断した場合、「安堵」したりするんではないか。

大和対策では、始めに松永久秀を味方にしたので、大和の主な在地の国人は信長の敵になりましたが、その後、信長の配下となり献身的に信長に尽くすわけで、たとえ興福寺を始め大和が巨大な中世的勢力といえども、表立って反抗した叡山や本願寺とは根本的に違います。


それらを踏まえて、体験的にまた、教養として新しく身につけた「大和は神国」という言葉を使って、天正八年の筒井存知を実現させたのではないだろうか。と思って見ました。


今日はあくまでも思いつきの内容でした。
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2008年01月01日

お正月らしく、正月史料から

皆様
明けましておめでとうございます。

今年も、週一回は更新していけますように(祈)がんばります。


さて、正月にちなんで、正月らしい、しかし、重要なお話をチラッとしておきます。

「蓮成院記録」という史料があります。
その中の、天正10年1月6日条には

信長が「大和は神国にて」という言葉を言ってたと書いています。

ある人物が、大和をくれといったら、ダメだと言う理由です。

あの、信長が、言う言葉でしょうか?


ということで、後日詳しく紹介いたします〜


本年もよろしくお願いいたします!
posted by taigon at 19:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月23日

「織田政権と大和」から派生課題

卒業後、卒論を、改めて大学の研究室発行誌に載せてくださるということになり、私の担当教授が、村田先生に感想を求められた事があります。
そのときに「大和中世史の理解を疑うところもある」と一括された部分もありますが、具体的にどこが良くて、どこが悪くて、どうすればよいものになるということも教えてくださいました。

今回は、それを紹介します。
興味をもたれた方には是非、織田政権論や中近世大和研究の一テーマとして研究してもらえれば、この上ない喜びです。



以下要約です。

論文を読ませて頂いた感想を述べさせて頂きます。

織豊政権の地方支配の実態を「大和」と言う、あまり扱われなかった土地についての分析した点では意味のある論文だと思います。

特に破城と指出の実施責任者が別である点に注意喚起した点は重要です。
おそらく多くの人が知っていた事実だと思いますが、問題にすることの意義が理解されていなかったのだと思います。

ところで、この問題を大和の特殊事情に引きつけて説明しようとしていますが、疑問があります。
大和の特殊性は確かに一つの柱ですが、もう一つの柱は、統一政権における軍事指揮権と知行権のあり方という一般性にあります。

他国ではどうだったのか、大和だけなのか。

破城は破城すると決定さえすれば具体的執行は委任可能ですが、
指出(検地)は決定だけでなく原則の遵守に関わって執行段階まで政権の責任で行わねばならない性格のものですので、豊臣政権でも検地奉行の派遣が常です。

織田政権はどういう権限を委任した大名(守護)として分国を預けたのか
天正八年段階でそれがどうなり、さらにどのように展開したのか?(豊臣政権で固まる方向がどこまで意図され実施されていたのか)

という全体の中で、大和の具体例を生かす、その際、大和の特殊事情がどのように影響したのかを考える、という視野が必要です。

(中略)

破城・指出問題をうけて城下町(郡山)でしめる、という文脈もすばらしいですが、その構成が必ずしも生かされていません。
郡山の立地論になってしまって、統一政策の地方版として構造的にとらえるという視野が欠けています。
なぜ郡山かの前に、なぜ城下町か、という一般的テーマがある。

(後略)以上よろしくお願いします。

一九九七年四月二八日



途中で、卒論でそこまですることは出来ないけれど、そういう姿勢をもって研究してます、という態度がないとダメだよとか書いていただいています。

ホント、お忙しいでしょうに、ちゃんと目を通してお返事くださり、とても的確な課題提起、感謝の念に耐えません。

ただ、私が当時このお返事を頂いてすぐは、「郡山の立地論を外すと、本来のテーマが崩壊してしまう、、、」と、心の中で思ってしまっていました(汗)。
担当教授もその心を分かってか笑っておられました。

結局活字になる際に、語句の訂正を何箇所かしただけで、テーマや視点を変える事はしませんでした。


それでも、大学を離れた今でも、研究したい気持ちでいられるのは、このお手紙があるからです。ホントにありがたいです。
posted by taigon at 10:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月03日

キーワード

ここで、今後の課題についていろいろ思いつくままに書いてみます。

このブログでは、信長と大和を題材に、多角的広範囲にいろいろなネタを小出しにして、中世から近世への過渡期を検証しています。


キーワードとしては、

織田政権論
戦国大名論
都市・流通・経済史
寺社・荘園史
中世権門体制
宗教史
城郭研究
中世大和研究

もはや何でもありの状態ですが、

「大和郡山城」

というお城が出来た背景をわかるためには、これだけの事柄を理解していく必要があるということですね。


そうそう、簡単には解決もしない代わりに、郡山城を中心に、これらを関連付けて紐解いていくと、とても面白い結果が沢山見えてくるはずです。

非常に楽しみではないですか?
posted by taigon at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月21日

石高と貫高〜新たな課題の展開

納税の基礎的な話ですが、

石高=米の年貢高(もしくは生産高)
貫高=貨幣による年貢高

となりますが、よく理解していないことも多いと思います。
私もその一人です。


中世、市などでの買い物が、現物取引だと思っている人も多いと思います。
しかし、歴史の教科書にあるとおり、土倉などが繁盛したのは、貨幣の流通がいきわたり、その管理に対する需要と供給の関係で発達した事があります。

ということは、中世は今と同じように、お金がものを言う時代だったわけです。

それが、なぜ、近世になって、また米による年貢となったのでしょうか。

選銭が原因ともいわれます。もう少し勉強しておきます。


そのようにして、私の本文を再確認すると、
信長が、天正八年(1580)に行った「石高」に統一して、一国の年貢高を把握した事。
また、元亀年間に松永久秀が多聞山城下の市に「市が楽のときは以前のように銭納」せよ(つまり、逆に言えば、最近は現物納になったという証になります)といったことが、理解しやすくなります

この頃、貨幣の価値が変動気味だったのかもしれません。
(勉強不足ですみません)



こうしてみてくると、天正八年の政策を検討すれば、改めて信長の大和政策を研究する課題がいろいろと見えてくると思います。

・郡山城を武士のシンボルとして建設し、大和の統治にあたらせる。
流通の研究。支配権の研究。

・郡山城に入城し、大和を与えられたのが「衆徒」筒井順慶。
信長の人材登用。大和の支配権の研究。信長の館山と政策の研究。

・比叡山を焼き討ち。大和の大寺は安堵された。
信長は戦国大名か近世的支配者か。

・寺社の対権力運動の展開。

・荘園制末期の研究。



などを課題に引き続きレポートしてきます。
posted by taigon at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月17日

貨幣流通について

本論の中身で、私が全くの無知で歴史認識を間違っているであろう表現の一つに、中世の貨幣経済があげられます。

今後しっかり基礎勉強して克服していく課題ですが、自分なりに整理してあげておきます。


信長の上洛以前の、配下の武将への禄高は、貫高で表現されていたと思います。
上洛後のいつころからか、地域によっては石高で表現される事もあったかと思います。

また、一元支配を推し進めていったという信長ですが、一方、領地が各地で飛び地支配している武将も多々あります。


貫高は、つまり貨幣での納税を意味するわけですが、貫高制については一度も勉強した事がありませんでした。

本論第二章の以下の内容について、私自身が理解していないと思われるのです。

_________________________________________


 新都市建設という行為はその存在だけで、楽市楽座令の有無に関わらず、旧権限の無効を意味するといえる。この行為は、郡山城より以前の永禄年間(1558〜1570)にすでに松永久秀によって行われていた。
 松永の政策は、多聞城を築くところから始まる。奈良への要所で奈良坂の見張れる眉間寺山に城を築いた久秀は、そこを拠点に奈良の諸政に管掌を始める。さらに永禄12年(1569)には、城下の法蓮郷に市立ての旨を奈良の町にふれた。この市は時として楽市として開かれたらしい。それは次の元亀2年(1571)の文書に見える。

  「片原山預り状  坂衆  元亀二年 十月 二十八日」(樫尾文書)
    アツカリ申カタワラヤマノコト
    (中略)
御チシハタウ子ンワ十合八斗、ラヰ子ン申ノトシヨリハ、十合壹石ツゝサタ可申候、
モシタモンイチラクノトキハ、マエノコトク壹貫六百文、十月卅日ニサ申ヘク候、

 ここでは、市が楽の時は「マエノコトク」地子の「銭」納がなされたとある。この市立てにより銭取引も行われ、それが座商以外の百姓も商売できる様がわかる。
 この市立ての令された永禄12年は、信長により撰銭令が出された直後である。その成果自体は逆に流通の混乱を招き貨幣の流通に阻害が出るなどして、米の代銭の増加が見られるのだが(78)、しかしそれでも城下や寺社が、銭獲得に動いていることは、銭取引の一般化の傾向にあったと見ていい。
 ここに座の独占権が奈良近郊においても機能しなくなってきたことがわかる。この後法蓮市がどうなったかは史料の上では知る手段を持たないが、多聞城と同じ末路を辿ったと見てよい。


______________________________________

文章表現的に正しいのかどうか。

今見直してみると、興味深い史料です。
ここでは、松永久秀が坂衆から地子をとるようですが、それを今は現物だが、もし楽市が立てば、銭納せよと書いてるわけですね。
逆に言えば、以前はどんな時でも銭納だったのが、現物になったけれど、やっぱり楽市が立てば、銭納でよろしく。とかいているわけですかね。
また、市が立てば、現金が集まったという事も理解できますし、支配者も現金を欲しがったということもわかります。



こういった史料を的確に理解できるように、基礎学力の向上に努めたいと思います。
posted by taigon at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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