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2007年11月03日

最後のテーマ 新展開へ

さて最後のテーマ。
筒井順慶を大和存知にした理由。
これは、本論ではほとんど触れていません。
しかし、最後の駄目押しで紹介しておきます。

信長がはじめた、大和での政策。
しかし、検地をした上で出した結果は、「安堵」で、現状維持を確約。
そして、大和の新統治者として、改めて筒井順慶を選ぶ。

筒井順慶は、何度か紹介したとおり、中世の権威興福寺の衆人です。

信長としては、最初松永久秀に大和を支配させる予定でしたが
松永謀反の結果滅ぼしてしまったので、柴田勝家や原田直政など織田家を代表する武将に大和の国を統治させようとしました。

しかし、結局天正4年に大和は筒井存知になり、さらに天正8年に新たな政策を施した後も筒井存知でした。

天正九年のある記事に信長の身内が大和一国を欲しがったが
信長が「大和は神国にて」それはならないというふうなことになったそうです。(蓮成院記録)

おそらく、ずいぶん骨を折ったのだと思います。大和統治については。
ここらあたりも、信長の人間的で、破壊のみを好む超人ではなかったことが分かると思います。




さて
途中、何年も何ヶ月も休止があったりして、遅々としてすすまなかった当ブログも、前回で本論「織田政権と大和」については一応の解説が終わりました。

自分で振り返ってみると、大変あっさりと終わった感じがする解説でしたね。

信長は、
改革者ではなく解放者だった。
破壊志向ではなく再編志向だった。

また、近世城郭への発展過程においては
自由に拠点を構え、城館などを造ってきた戦国武将たちも、
郡山城のように、一度完全に信長のものとなった後、治めさせる武将(今回は筒井順慶)に与える(もしくは貸し与える)ような方法がとられ始める。
また、不要な城郭は破却され、一つの国に一つの城(もしくは大きな地域に一つ)の原則とともに
拠点は軍事的な重要地としてよりむしろ、物資の流れを重視した場所が選ばれた(流通拠点の支配)。

それらは、豊臣政権に大きく引き継がれていったのだろうと想像される。

などご理解頂けたら、一応の目標は達成できたと思います。

また、過去にあまり研究対象にならなかった戦国大和が実は、大変研究テーマに溢れている、ということも知っていただけたのではないでしょうか。

ここ数年、城郭研究ブームで、城跡探索などで村田修三先生のフィールドの一つ大和の山城などが人気を呼び、多くの方が戦国大和に興味をもたれているのは本当に嬉しい限りです。


さて、今後のブログ展開として、新しくカテゴリを増やし、もっと織田信長や大和、また中世戦国などの時代考証を進めていきたいと思います。

10年前に集めた手元にある資料も、ここ数年未開封です。
ブログでは、大事な表や図をアップする事もしていませんでした。

これらを一度ちゃんと整理して、紹介して行きたいと思います。

また、最近知った、実家が実は中世城郭後だったというのも含め、お城のネタなども沢山書きたいと思います。

11年前にたった半年ほどの作業で書いた卒業論文と、ここ二、三年かけて書いてきたブログ。
今後どのような広がりを自分で作っていけるか、とても楽しみです。

ぜひ、こんな情報を知っている、ここの検証の仕方はおかしい、などのご意見などありましたら、沢山コメントいただけましたら幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。
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2007年11月01日

織田信長の改革手法

さて、いよいよ最終章、本論「まとめ」の解説です。


ここでは、織田信長は中世の破壊者のか?という、よく論じられる部分に触れています。

結論から先に言えば、「破壊者ではない」ということを、遠まわしに書いています。

信長が上洛する前後からの、畿内で実施した政策のうち、大和統治について詳しく見てきたわけですが、そこには、一人の人間、一人の施政者としての、苦心が非常によく見られるのです。
大胆かつ繊細。またその逆。

とても面白いのですが、その詳細はまた次回書くとして、今回はまとめるところをまとめておきましょう。



まず、天正八年に注目して始まった本論。
信長が本能寺で倒れるのが、天正十年六月。
その二年前。長年続いた本願時との戦いに終止符がうたれ、織田政権がいよいよ本気で全国統治に乗り出そうとする年です。

真っ先にはじめたのが、大和での一国規模の全城郭破却。
さらに、ほぼ同時に行われた、一国規模の検地(指出)。
この二つの政策を詳細に調べ検証することは、織田政権研究で重要なことである。と理由付けしました。


その手がかりとして、一国破城で唯一残された「郡山城」の選択の理由を解明するのを目的に検証を始めました。


そこで判明できた事とは。


郡山城を築城した結果、国内での小競り合いをなくし、織田政権下で一団となり得る、大和での一国規模の軍団を創設しようとしました。
さらに、遠隔地流通の拠点確保として、郡山の位置に目をつけ、そこに一国規模の政治と経済の中心となる地を、作ろうとしました。

巨大な古代都市奈良。
中世にもその権威有し続け、その寺社の下では多くの特権が存在していました。
また、荘園を基盤とした実力も侮れません。

しかし、武家の中心地として新都市の郡山を作ったことは、寺社の特権、占有してきたものを、大きく解放する動きとなります。
既に安土城築城の時から、奈良の職人がその普請のために信長に借り出されていました。
当然、郡山築城にも、寺社のための工房が利用されたであろうことは想像できます(証明は出来ていません)


商人、職人に限らず、兵士さえもみな寺社に依存し管理されて存在していた大和独自性。
彼らを、天正八年の両政策で、改めて、織田政権の下に再編をしようとしたのでした。

しかし、それは信長の代名詞のような「徹底的な破壊」という形とは全く逆の、「安堵」という言葉を使った、政策でした。


大和に於いても、たしかに、いくつかの武家がつぶされています。郡山辰巳という武将もその一人です。
これらは、征服地の反乱分子をつぶしただけのことであり、中世を壊すというような思想的なことではありません。


こうしてみると、信長は、気長にしかし確実に、また的確に、政策の実行を進めその利を得ているようです。
バランス感覚に優れ、残すものは残し、しかし変えるべきは変え、遠回りのような政策が実は、驚くほどの近道として成果を挙げていく。

このような、信長の政策というクッションがあったからこそ、秀吉の太閤検地などの政策が実行しやすかったと思うのです。

信長の目標は、征服地の一元的支配です。その一元的支配のシンボルとして、その地域に城郭を建てた。といえるかもしれません。


そして、なんといっても、大和の新しい立派な城に入城したのが、興福寺衆人、筒井順慶だった。というのが、とても面白く、そして、信長研究にとても重要な意味を持っているのではないかと思うのです。

それらは次回。
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2007年10月28日

瓦職人安土に参る

織田信長が、有名な安土城の普請を始めたのは、天正4年と記録されています。

この安土城の研究は最近ずいぶんと進められ、発掘調査に基づく科学的検証も行われています。

さて、表題の瓦職人とは?

安土城の築城の際、その屋根に葺く瓦を生産したのが、奈良の瓦職人であったことが、研究によりわかっています。

信長公記にも記述があり、発掘によっても明らかにされたその、瓦職人。


ルーツは、南都の大寺院のための工房でした。

そもそも、お城が大々的に瓦葺の屋根として、あの重厚な姿になったのは、信長の安土城が最初だといわれています。

寺院や役所などの中世権威が利用していた瓦屋根。
他の建物は板葺、茅葺であったのでした。

当然瓦職人自身も寺社に管理されていたのです。そして、その最高の技術者が奈良の瓦職人でした。

信長は、彼らを自らの城を築くために、その立場を解放し、我が元へと再編しようとしたのです。

その他、信長が考案したといわれる築城方法では、中世の権威が大いに利用した最高の技術を盛り沢山、自分の下へ集め、その粋を極めた新しいものを生み出そうとしたわけです。


つまり、信長自身が全く新しい何かを作り出したというよりは、
当時色々なところで、ある範囲内だけに制約されて活動していた人々や技術を、大々的に解放し、自由に利用できるようにした。

という方法が用いられているのです。

そして、当然、その一連の流れで築城された郡山城は、
大和の新たな権威、武家のシンボルとして登場してきたのでした。

中世的権威をうまく残しながら、しかし自分の下へと再編してしまう。
守られてきた伝統が新しい輝きを放ちつつ、守ってきた者どもは、その地位にあぐらを書いておれなくなってきたのでした。


さて、次回は、まとめに入っていきます。



やっとまとめまで来ましたが、途中、いくつか本文の内容を端折ったりしております。
つまりは後から、これは検証が足りない、誤解がある、という点についてはそうなっています。
また、まとめも終わりましたら、疑問点、問題点を再点検する作業を進めていきたいと思います。
これらの作業が近づいてきて、とてもわくわくしています(笑)
posted by taigon at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月21日

市場の形成

筒井順慶が在城中に郡山城下に市場があった形跡があります。


中世の寺社勢力の権力は、大和の中で、流通にも及んでいました。

自身で直接史料に当たったわけではないので、詳しく知らないのですが、
ものの本で、学んだときにこうありました。


四方を山で囲まれた大和は、海で生産される塩は遠隔地流通に頼るしかありませんでした。
これが、どのような方法で大和にもたらされたかというと、寺社に守られた流通専門の運び屋(馬借でしょう)によって、運び込まれます。
また、経営を安定させるために、大和国内に持ち込まれる塩の量を、制限していました。

つまり、搬入量が多くならないので、高値が維持できるわけですね。

(それにしても今一度このシステムをよく勉強してみたいと思います。塩は商品でしかなかったのかどうかとか、今になって疑問がでてきましたので)


大和で寺社が、流通にも目を光らせていた頃には、このようなシステムがうまく動いていたようです。

が、しかし、多聞院日記を読んでいた私は
「今年ほど塩が安い事は今までなかった」というような記事を見つけました。

天正12年のことです。既に織田信長が本能寺で斃れてから2年が過ぎていますが、大和郡山には筒井順慶が健在でした。
上の記事では、その時の郡山の市場での価格を伝えるものです。


つまり、この事実が何を物語っているかといえば、
寺社が流通の支配をしえなくなってきていることがわかります。


織田信長の登場により、大和での流通の流れが、徐々に改変されてきていた事がここに理解できると思います。


これら、流通に関わるものだけではなく、お寺に属する職人集団にも再編が進められていたことも分かっています。
それらを、次回に検証していきたいと思います。
posted by taigon at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月16日

大和郡山城「城下町形成」

信長の大和における政策第一弾として
「郡山城を残し他の城郭破却」に及んだ
第二段として
「指出検地」を一国規模で行った。

さらに、大和国人の粛清。

郡山城はもともと、ちゃんとそこに存在していたのです。
しかし、郡山の在地領主は、このとき滅ぼされます。

そしてこのたび、信長の命令により、
筒井順慶という武将に、大和一国の支配を任せるために新しく建設させる。

という手順を踏んでいます。


ここまで、みてきたとおり、奈良という都市に求心的なベクトルを有していた、大和の町。
大和ばかりでなく、奈良の寺社は近隣諸国にも巨大な荘園を有し、中世の巨大な権力でした。
また、大和国人は京の政権にも常にかかわり、南北朝の争いや、足利将軍家の派閥争いにも重要な位置を示していました。

そんな中、巨大権力として現れた織田政権。

今、新しい未来に向かっての方針を、どんと押し出されたわけです。


今日、織田政権下において、筒井順慶がどのような方針で、都市を運営したのかを知る手段を、私は持ち合わせていません。

しかし、豊臣政権下において、順慶在城中の郡山城下に市が形成され、城下町が整備されていたのではないかと推測されます。

そして、多聞院日記には、「郡山の市で塩がとにかくやすい」
という記事が何度か見かけることが出来ます。

郡山城下の市場調査に出向き、主婦のように、安いものを買い求める姿が残っているのです。

この事実が物語るものは何か、それこそ信長が目指したことではないのか。
このあたりを、次回検証していきます。
posted by taigon at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月12日

街道を押さえる2 虎屋

前回、郡山という場所が、奈良と堺を繋ぐ街道沿いであり、
史料にも、商人や軍勢が通る道であったことがわかると書きました。

信長は、山城方面との街道沿いである、多聞城は破却したまま再利用しようとしませんでした。

大和支配もまた、堺や大坂を意識した戦略であった事が伺えます。

このあたり、卒論の中では検証していませんが、この解説が一通り終わった後、しっかりと重点課題として検証したいと思います。


さて、郡山は当時、どんな都市だったのか?
という点について、検証したいと思います。

多聞院日記の中で、
「京の虎屋が郡山で勧進能を催すので、興福寺の慶事にも呼びました」
という内容の箇所があります。

天正8年2月のことです。

能について細かい解説は省きますが、
虎屋というのは、利益を目的にした、玄人肌の素人といいますか、当時とても人気のあった、興行目的のセミプロ集団でした。
かなりの実力持っていたという事です。

彼らが、郡山での興行をした。これだけでも、ある種の、都市機能があったといえます。


天正10年に信長は本能寺で斃れます。
その後、豊臣政権、江戸幕府と、政権交代が行われますが、
常に、郡山は重要な土地として扱われています。


それは、山城に伏見城、摂津に大坂城、大和に郡山城
という、畿内の流通拠点に城を配置していく一連の流れともなっています。


その壮大な都市政策は、天正8年の信長による、大和一国破城令にから始まるのです。
posted by taigon at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月06日

街道を押さえる

お久しぶりです。
今週からまた、ぼちぼちと記事を書いていきます。

基礎知識を増やすために、図書館で借りてきて、城関係、中世関係の本も読んでみています。またそちらの感想なども書けたらと思います。


さて、早速に本文の解説に戻ります。

織田信長の戦略で、街道を押さえて軍隊はもちろん、流通の支配も見込んで近世城郭を建設した事は有名です。

安土城の築城は、とても重要な意味を持っているようです。
また、本願寺に退去させて大坂を押さえたかったの大きな理由も、大坂という土地が、外港として、また東西を結ぶ拠点として、また、京都の押さえとして、などとても重要な拠点であったからだと言われています。


さて、今郡山に目を転じた時、その地理条件はどうなのでしょうか?

本文にも書いていますが、奈良から堺方面に向かう重要な街道が、郡山の真ん中を通っていたようです。
そのまま法隆寺方面へ向かって現在の国道25号線あたりを通って、抜けたのでしょうか?詳細は分からないのですが。

郡山の古地図には、堺街道というものが書かれています。
また、ある松を目印とした分岐点があり、南へ向かうと筒井にいく道もありました。


さて、奈良は堺を外港として、西日本や遠く海外からの物資が入ってきました。
木津も利用していたようですが、このころは堺の町がとても反映しておりました。

その堺と奈良を結ぶ重要な街道が郡山を通っており、ここに、新しく一国規模の城を築き、相応しい城下町を形成するという事は、奈良の町へ向かう商人が、必ずここを通るわけですから、全く新しい経済圏が生まれるということにもなるはずです。

また、西から奈良へ向かう軍勢もここを通っている事が、史料にみれます。
すると、奈良へ向かう軍勢をいち早く、抑える役目も果たすことになります。

郡山城のある地点、そこは街道上の重要な位置だったのです。
posted by taigon at 17:21| Comment(6) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月21日

大和郡山の位置情報

いずれ、用意できたら、アップしたいと思いますが、表や図もいくつかあります。
そちらを見ていただければ、もっと分かりやすく情報を提供できるのですが、今しばらくお待ちください。



筒井氏の本拠は、大和「国中(くんなか。奈良盆地のあたり)」の現在の奈良県大和郡山市筒井町、近鉄筒井駅のすぐ近くです。

大和郡山城は、目と鼻の先です。
筒井より、まっすぐ北に2kmあたりにあります。

勢力範囲内といえば、そうなのですが、
筒井氏は筒井の城を何度か追われているのですが、
布施、福住あたりが拠点となっており、郡山に入城という記録は見たことがありません。

郡山のあたりは、郡山衆が抑えていたのですが、この郡山衆もいろいろで、松永を迎え入れて辰巳殿が一番勢力が大きかったようです。
確かに、郡山衆も筒井一党として松永と戦っているので、筒井方ともいえますが、順慶の一存で居城をそこに移すという事は、可能性が低かったでしょう。


また、大和にはそのほか、大和高取城、大和秋山城が、天正八年以降、改めて近世城郭として復興されます。
このあたりは、筒井氏の勢力範囲とは比較的遠い場所です。また、ずっと筒井氏と勢力争いをしてきた、大和の南方は越智氏の勢力圏に近いところでもあります。
また、高地にあり、さらに奈良(この場合、現在の奈良市)とも近くは無いです。

一章で検証したように、奈良支配、また、実力者の南都の寺社ににらみを聞かせるには少し遠いでしょう。

興福寺のある、現在の奈良市東部と、郡山城のある大和郡山市中央は、近すぎず、遠くなく、という感じです。
松永久秀の築いた多聞城は、南都の出入り口を押さえる重要な地です。

私は、多聞城跡でも良かったように思いますが、山城方面との境で、どちらかと言えば、大和支配には北方に寄りすぎともいえます。


ともかく、大和にもともとあった城郭。
大和の国人が、大和の勢力争いのために築いた、領地のある館といざと言う時の山城というセットで存在していました。

地図だけで見ると、郡山城は、奈良県の中でもずいぶん北に位置しますが、
今、吉野地方を分けて考えると、奈良盆地の中央辺りにある丘陵をうまく利用しているのが郡山城であるとわかります。

さて、次回は、地の利について流通などから見ていきたいと思います。
posted by taigon at 10:32| Comment(0) | TrackBack(1) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月19日

大和郡山城!

かんたん編

いよいよ後半、第二章へ入りました。

やっと一番最初に疑問を持った、「郡山城選択の理由」という内容に行きます。

卒論本文では、くどくどと、「なぜこの郡山への着眼が大事なのか」ということを書いていますが、
簡単に言えば、このブログでも以前に書いたとおり、「あの織田信長が大和で一国規模の城として選んだ」というだけで、十分検証対象になると思うのですが。どうでしょう。

あれほど、安土城の研究はすすんでいるのに、郡山城を信長が選んだ理由はだれも目をつけないなんて。


一章でも言いましたが、天正八年は、信長が本能寺で殺されるたった二年前です。織田政権の終末期です。
さらに、既に安土城などが建設された後であり、本願寺戦が終わって、これから畿内を統治し、また、全国へ展開していく、という時期であります。

郡山城は織田政権崩壊後も、豊臣政権、江戸幕府と時代は移っても重要な城として整備発展していきます。

郡山築城の監督には明智光秀が足を運んでいる事も分かっています。


それにしても、筒井氏在城中の郡山の史料はあまり見かけません。
城下町政策など。
このようなものが見つかれば、想像に頼らなくても、いろんな真事実が明らかになるのだろうと思うのですが。


さて、これからはお城関係の話も出てきます。
また、都市研究、流通、経済などの話も出てきます。
そのあたり、私は全くの素人で、(というか全てに素人です)基礎知識も不足していますし、常識はずれの発想もあるかもしれません。

おかしな文面を見かけられましたら、ぜひ、コメントなりメッセージなりを頂けましたら幸いです。
面白い内容だと思われた方も、ぜひ、コメントくださいませ。


さて、大和郡山の歴史をほんの少し触れておきます。

http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/rekisi_flameset.html
市のホームページでも見れますので、ぜひご覧下さい。
(余談ですが、この歴史辞典には昔検索システムが無かったのです。そこで私がメールで要望したら、次の週くらいに検索できるようにしましたって、返信が来たんですよ。対応の早さに驚きました。)


郡山と言う地名は、日本各地にありますが、地名辞典などによると、古代の公の地方局のような機能したものの名残だったと思うのですが、私の記憶が非常にあいまいなためこの解説はやめておきます。


さて、大和の郡山に関して言えば、ここを根城に活動する郡山衆と呼ばれる一団がありました。
どうも、悪党の類だったようです。
中世は、筒井氏の一党だったり、裏切ったりと、これはもう大和の武将を調べる上で本当に厄介なのですが、史料が変わるたびに、あちらの側こちらの側についています。

天正八年は、郡山衆の辰巳殿というのが一番大きな勢力だったんですが、筒井順慶入城にさいし、滅ぼされています。
私はこの事実には驚かされました。

多聞院日記には、松永久秀大和乱入の際に、その手引きをしたのが郡山辰巳殿だったが、その恨みを順慶が忘れていなかったので、滅ぼした。というような書き方がされています。

私はそれだけじゃなく、新しい城を築くのに、邪魔だったのじゃないかなと思ったりもします。

しかし、これを見ても、順慶が前々から郡山を居城にしようして整備していたとは考えにくくなります。
もともと郡山にいた者を滅ぼさなきゃならないのですから。順序がおかしくなりますよね。


筒井城は、いろんな資料に見えるとおり、洪水の被害にあいやすい田んぼの真ん中の平城で、今でも堤が残っているのですが、大和川の支流が流れていて、洪水の際は、田んぼが流水地として氾濫し過ぎないように水の流れを計算した堤を作っていました。
近世城郭として整備するには、確かに条件は良くないです。
しかし、順慶が松永退去後の多聞山の城石を筒井に持ち帰っているんですが、これは筒井城を石垣造りの城郭にしようとしていたのではないかと思ったりもします。
それは、masaさんと言う方のお話でもあったのですが、筒井氏は結構鉄砲に精通しています(また後日紹介します)。
鉄砲戦を想定した場合、石垣造りの城が有利だとも考えられるからです。

筒井から引っ越すにあたり、郡山以外でどこかいい土地が無かったのかと思いますが、それは、次回にまとめて書きましょう。
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2007年07月15日

弱腰な信長?そのバランス感覚

第一章もいよいよまとめが近づいてきました。


私は、こう結論付けるわけです
大和の二面性、それは

経済力の寺社=興福寺
軍事力の武士=筒井氏

しかし、筒井氏は、興福寺の官符衆徒であり、興福寺から言えば、配下です。

指出検地で、筒井順慶を担当奉行にすると、寺社に対し厳密に短期間に終わらせると言う強圧的な監督ができなかったんじゃないかと
そこまで信長が読んでいたのではないだろうかと思ったのです。

また、寺社勢力の荘園について、織田政権自らが監督下におくという措置にもつながりそうです。
筒井順慶が大和の守護と言う立場で、預け置かれたとしても、寺社の経済力を武将が自由にできないのであれば、地盤は半減するようなものですから。

また一方、城割を順慶に任せたのは、大和国人を軍事的に纏め上げる立場を明確にしたのだと思います。

指出の結果にも、信長は急いで新しい政策を打ち出すわけではなく、内容を安堵しています。
土地を取り上げるのでもなく、また、縛り付けるのでもなく。
但し、土地情報を書き出す方法を、「石高」という、米の年貢高に統一した上で、それを一国規模で把握したのですから、これは大和の歴史の上では画期となりえます。
また、国人に関しては、四名の武将が生害させらて、土地を取り上げられています。城割により、拠点も破壊されています。
これでは、大和の国人たちの好んだゲリラ戦法ができませんし、300もあったという、城館が失われた事により、大和国内の内戦もなくなるでしょう。
これは、大和だけに限って言えば、突然わいた平和的政策です。


大和が一国規模で、
武将は筒井氏の管理下に、そして寺社勢力は政権自らの管理下においたことが伺われるのです。


しかし、ここでいくつかの検討すべき内容、考え直すべき内容もあるのです。

筒井順慶は、あくまでも興福寺の僧なんです。
また、筒井氏も寺社に対する力も持っています。
いろんな意味で、なぜ、この期に及んで、筒井順慶が、大和の守護に選ばれたのでしょう。
信長でも、大和統治は難しいと思っていたと思います。
それなら、比叡山や本願寺を武力で制圧したように、大和の興福寺も武力で制圧すれば話は早かった?

しかし、大和には比叡山のような大きな反対勢力も無かったのです。
松永征伐にも、協力的です。矢銭も拒んでいません。

ただし、いくつかの信長による高圧的な処置があったようですが、なんと、順慶がうまく対処して、それを回避したりしています(詳しくはまたいずれ)

この微妙なバランスにより、まるで、信長が大和に対しては全く弱腰でその実力を発揮していないような、信長らしくない姿がみえるのです。

世間の、信長像を作り上げる時、大和のこういう政策方法を皆さんは知っているでしょうか?
比叡山焼き討ち、本願寺の制圧、皆殺し、幕府を滅ぼすなど、その苛烈さばかりが印象的ですが、信長は下手な消耗戦は実は好まなかったのかもしれません。

しかし、第二章に入れば、また新しい信長の実力が見えてくるのです。
それは、真綿で首を絞めるような、非常に時間をかけた粘り強い方法による、改革です。現代にも通用するような方法です。
そこを一緒に見て行きたいと思います。
posted by taigon at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

大和の歴史を振返る

大和の歴史については、このブログでも何度か紹介してきました。
このブログの初期の内容は、大和の解説が多いので、まだお読みで無い場合、ぜひご覧下さい。
ある程度、このブログもまとまってきたら、整理して読みやすくしたいと思っていますが、それはまた余裕が出来たら行います。
今は卒論の本文に沿ってかんたん編を書いているので、ともかくすすんでいきますね。


さて、私の卒論の一番の弱みがこの第一章二節です。

何せ、荘園制の勉強などしたこともないのに、荘園の大本所が支配する、大和の歴史を書かなきゃならないのですから。
しかも、このブログに載せいてる文章は、少し手直ししたもので、卒論自体はとてもひどかった。
私の恩師が、なんとあの村田修三先生に私の卒論を送って、その感想を求められているのですが、

「本当に中世史をちゃんと勉強して理解してるの?」

というような、村田先生の手紙が返ってきました。
一章二節の部分を読まれての感想ですね。はずかし。。。

だから、今回のブログでも一番稚拙で恥ずかしい内容なのですが、まあいいやということで載せています。

なぜなら、卓見もあるからです(自分で言うな)。
改めて、このかんたん編が終わったら、詳しく検証していきたいと思います。お楽しみに。
正直、今の学生さんで、この二節の内容をやる人がいたら、きっといいお題になると思います。興味のある方はコメントくださいませ


さて、本文の解説(できるのかな?)にもどります。

大和は、興福寺と言う寺社が守護という、日本全国例を見ない国です。
その興福寺が、武力を持っていました。いわゆる僧兵ですが、それぞれ大和の各地に所領を持って、在地領主という立場でもいました。興福寺の中にも派閥のようなものがあり、争っていたりもしました。また、興福寺以外にも有力寺社もあり、そこに所属する在地領主もいました。

当時、寺社は、荘園を運営していて、そこからあがる税収で生計を立てていました。
しかし力をつけた在地の国人に荘園を侵食されて、税が上がってこないこともありました。

少し難しいのですが、
在地国人にもいろいろな事情があって、反対にお寺に領地を寄進して、寺の支配下に入ることで得する事もあり、多くの国人が興福寺の支配下に入ったりもします。
税(というか上納する先)をどこにするかっていうだけの違いです。
(つまり、年貢を幕府に納めるのか、寺社に寄進して荘園管理人にしてもらい寺社に上納米を治めるかということです)


ともかく、ようは、大和はお坊さんの支配する国だったのです。
武士でもないのに、幕府組織の守護という扱いですから変な話です。
筒井順慶は、興福寺僧兵の代表者のようなものでした。
以前書いた内容です。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/8218636.html

しかし、長く続いていたその体制にひびが入ったのが、松永久秀の大和侵攻です。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/8390854.html
あの有名な悪者にされる武将です。松永久秀の軍隊は協力で、あっという間に、筒井氏を筒井から追い出し、興福寺にも命令するくらいの立場になってしまいます。
さらに、信長が入京した時には、久秀と信長は事前に連絡をとりあってもいたようで、さっさと信長の支配下に入ってしまい、大和を任せると言われます。
そして、信長より兵力を借りて、どんどん反対勢力の討伐に乗り出すのです。

大和国人はたまったもんじゃないし、興福寺も困り果てていました。

しかし、信長と松永久秀の関係にひびが入ります。
もともと畿内でそれぞれの領地で頑張ってた武将たちが、突然やってきた成上がり者(信長)に言いたい放題やりたい放題されるのが我慢できなくなってきて、反織田同盟ができます。
それが、足利将軍始め、大小名の連合隊ですが、松永久秀もその誘いにのったのです。

筒井順慶始め大和で松永軍に虐げられてきた国人衆は、これを機会に信長に近づきます。
辰市の戦いで、筒井軍は松永軍に大勝し、その戦勝をすぐに信長に報告します。

松永久秀がせっかく奈良から力が落ちたと思っても、次に、信長の有力な武将、原田直政が大和の守護としてやってきました。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/8850279.html

その原田も、本願寺との戦いのさなか、天正四年に討ち死にをします。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/9365993.html

遂に大和を筒井順慶に「任置」という措置がとられました。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/9546216.html


そして、大和はその後筒井順慶が大和の国人を率いて、信長の命令に従って、各地を転戦していたのです。

つづく
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2007年07月13日

政策実行者の違いに注目

一章の解説をつづけます

さて、「なぜ郡山城なの?」という、子供っぽい発想から始まり、その答えを探す事に当時の私は終始するわけですが、
しかし今振り返ってみれば、研究対象としてこっちの方が立派な発想だったんじゃないの?という発見を私はしました。

それは、「大和指出」の時、信長の命令を受けて滝川・惟任という二人の「指出奉行」がやってきたことです。
これは事実であり、個人が発見したとはいいませんが。
織田政権下では、なぜわざわざ奉行が派遣されたんだろうと思えるところがあるのです。

そこが、第一章のポイントになるのですが。

織田政権の支配体制に「一職支配」というのがあります。
これは、前回紹介した、脇田さんが作られた言葉なのですが、織田政権下において、配下の武将が「地域支配」をした、という意味です。

戦国期の武将は普通、本拠地意外に、いろんなところに領地を持っていました。
さらに、その配下も、自分が治める国のうちに本拠があるとは限りませんでした。
あちらこちらに飛び地をもっていて、それを大名に安堵されたり、自分の実力で維持していたりと、複雑でした。
拠点となる館や城があって、それ意外に税金を取れる土地が、隣の国の○○村にあって。と言う具合に。

それを信長が1573年(天正元年)足利義昭を京から追い出して、室町幕府を滅ぼした後くらいから、配下の有力武将に、地域(郡)単位で支配をさせていきます。
地域に配下の有力武将を派遣し、さらに与力と言う名前で、また違う配下の武将を、その地域に派遣し、一つの軍団としてまとめる。
そして、一職支配権に基づいて、武将が責任を持って土地を支配します。

つまり、普通の人が想像する、一般的な大名の姿のようなものです。
ただし、一職支配者にもいろんな制限があり、あくまでも信長に権力が集中しているのは変わりません。この辺りが、室町将軍と守護との関係の差です。
(これも、この段階で詳しく話しすぎるとややこしくなるので、これくらいにしておきます)

この件に関して、面白いページを見つけたので参考にしてみてください。
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html


さて、現在天正八年の時点での大和の状態を見てみると、
天正四年から筒井順慶に「任置(まかせおく)」となっていました。
私はこれを、大和の国の一職支配者は筒井順慶になった。としました。
(今は少し考え方を改めているのですが、それを今言うと話がすすまないので、後日改めて)

そして、この一職支配者がその責任の下、いろんな政策を信長から命令されます。

表を載せてあるのですが、天正五年以降の検地の実施者は、大体一職支配者です。

そこで、この天正八年の大和を見てみると、
城割に関しては、筒井順慶は命令され、責任者となっています。
しかし、指出検地の方は、信長から奉行が任命されています。二人も。
惟任(明智光秀)は、近畿方面を軍事的に統率していた感があるので、まだ分かるとしても、滝川一益という、ここまで大和では縁の薄かった一軍団長である有力武将が赴いているのです。
しかも当時の滝川一益は、拡大する信長の戦線最前線、関東方面への取次ぎとしても活躍を始める頃です。

これは、見逃せません。
城割と、指出検地の担当者の違い。なぜ、指出を筒井順慶に任せなかったのか?
二つの政策は関連しながらも、異質のものであるのではなかろうか?

そのでは大和の歴史を理解する事によって、その背景が見えてくるのです。
二節では大和の歴史を語っています(これがまた難しい、本文中ではずいぶん歴史認識が間違っているトコもあります)。
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2007年07月12日

政策の内容と過去の研究

松尾先生が書かれたところのポイントは、卒論の第一章一節に載せてあるので、ざっと目を通してみてください。
専門家じゃないとちょっと難しいです。私にもさっぱりです(汗)。

私の卒論では、この松尾論文の紹介は、
過去の研究史の紹介と、そのあらかたの内容を把握するための一石二鳥の役割をしています。

松尾さんは、脇田修さんとおっしゃる、織田政権論では著名な先生の論文を再評価する形で進められているのでとてもいいのです。

で、松尾論文にはどういうことが書いてあるかといいますと、
(簡単に書くのはとても難しいですが、卒論のかんたん編が終わったらまた、改めて検討していきますので、今はさらっと流しておいてください)。

天正八年という年が織田政権にとって画期の年となったのは、多くの研究者間で認識されている。
(以前に書きましたが、それは本願寺との戦いが終わって、いよいよ畿内での支配体制を確立する段取りが整ったからです。)

その年に大和で行われた「城割」と「指出」は、どちらも一国規模で、しかも時を同じくして連携しながら行われている。
これを研究するのは大事だ。

「指出」は、信長が寺社や国人に対して、「お前たちが支配する土地について詳しく教えなさい。その方法は、こちらが用意した書き方に沿って纏めなさい。一日でも早く完成させなさい」というものである。

ここで、大事なのは、

一、「織田政権側が用意した書き方を厳守する事」という点です。
自由でないわけです。大和の国中の土地支配の状態を、同時期に一括して一つの方法で書き出させるわけです。

二、その書きあがった内容が、信長に簡単に承認されたと言う事です。しかも、その内容は、昔からの荘園制そのもので、信長から「荘園を至急に解体しなさい!」という命令が無かった点です。

この事実から、脇田さんは、織田政権は、比叡山を焼き討ちしたりして大変な革新者と言われるけれど、織田政権での画期の年に行った、この大和指出は、豊臣政権の太閤検地と比べると、どちらかと言えば戦国大名的な方法だったので、近世的な土地支配は豊臣政権からといえる。
とおっしゃったわけです。

しかし、松尾さんは大和一国規模で行われているのが凄いんだ。しかも、その前に大和の国の城を全部破却してるじゃないか。
それは、本願寺戦が終わり、新しい大和国軍を筒井順慶の元、今後更なる強固な軍団としてどんな軍役にも耐えれるようにするための政策だったんだ!

とおっしゃっているわけです。

お二方の主張は、土地支配(言い換えれば百姓支配)と軍団支配という、すこしずれた争点になっていますが、私の論文にこの争点事態はそれほど大きな問題ではありませんでした。
先ほども言いましたとおり、「指出」と「城割」がどういう性格の政策で、過去にどんな研究がされていたんだろう、というところが分かっていただければOKです。



余談ですが、
ところで、始め私は、脇田さんの著書を読み漁ったんですが、中世土地制度も戦国大名論もろくに知らないので(むしろ何にも知らなかった)、単語一つから分かりません(今もあんまり変わりません)。そのうち、松尾先生の論文に出会って、すっきりと纏めてくださっていたので、それを自分の卒論にそのまま引用したのでした(卑怯者)。


とまあ、過去の先生方の研究は素晴らしいものなんですが、私は一つの疑問点を抱いたのでした。

つづく。
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2007年07月11日

滝川一益と明智光秀がくる

さて、とりあえず、天正八年八月以降に信長は大和に何をしたのか書きます。

まず、8月2日、本願寺が退去したことを見届けた信長は、京において、筒井順慶に河内・和泉(どちらも現在の大阪府)と大和一国の全ての城郭破却を命じます。
命じられたのは筒井順慶です。よく覚えて置いてくださいね。

16日には順慶はその本拠筒井城に帰り、翌日より自分のお城を取り壊します。筒井城下は大騒動だったようです。
命令されてから筒井に戻るのに二週間ほどあるので、それまでに、大和各地に取り壊しの命令に出向いてたのかもしれません。
早くも20日には、国中の破却が済んで、もはや郡山しか残ってない、という状態であったようです。

続いて、一ヶ月ほど経った、9月25日、信長に命令された滝川一益と、惟任光秀(本能寺で信長を殺す明智光秀です)がやってきます。

何をしにきたかといいますと、大和の土地情報を調べに来たのです。
私が、何度も「大和指出」と呼んでいる、「指出検地」のことで、詳しくは後日書きますが、ようは、大和中の田畑屋敷の土地台帳を、所有者(支配者など)がきちんと整理し書き出して、織田政権に提出せよ、と命令に来たわけです(ところで、学校で習う太閤検地とは方法が全然違うのでご注意ください)。

出来上がったのが、およそ一ヵ月後の10月23日だったと言います。
その間、一益と光秀は、奈良にとどまって、監督していました。
さらに、おそらく、その命令にはむかったであろう国人四名が、10月28日に滝川一益、惟任光秀、筒井順慶らによって殺されました。
11月2日まで滞在して滝川・惟任の二人は、京へ帰って行きました。

そして、11月8日信長の朱印状が届きます。

11月9日の多聞院日記です。
「昨夜安土ヨリ慥ニ注進状来、寺社領聊不可有違乱如先規ト、并順慶ニハ郡山ヘ可有入城、箸尾ハ順の与力ニナレト、国中一圓筒井存知ト七日ノ申刻ニ御朱印給云々」

この詳しい内容は、後日にするとして、つまりは、
「検地の内容は間違いなく織田政権によって安堵し保障される、また、筒井順慶は郡山に移り住むこと、大和の国は筒井順慶に任せる」
ということです。

以上が、大和で一国規模で行われた、信長の命令でした。

さて、この内容を詳しく調べられたのは、松尾良隆さんで「天正八年の大和指出と一国破城について」という論文があります。

次回はこの論文を紹介します。
posted by taigon at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月10日

信長の意図を探れ

さて、1580年(天正八年)の8月に、本願寺が大坂を退去しました。
11年にも及ぶ、本願寺との戦いは、信長にとっては、政権確立に大きな障害となっていました。

天正四年の時点で、安土城を築いていた信長には、確固たる将来の政権プランがあったと思われます。
先進的な技術、方法、アイデアに溢れた城郭。
また、発掘で明らかになった、天皇行幸を想定した、御殿の建設など。
そこには、中央集権体制の頂点として自身を置いたことが汲み取れます。
それは、あるいは天皇権力より上位のものとして自身を見ていたともとれます(詳細は、後日)。

しかし、大坂で頑張る本願寺勢力の抵抗のため、本格的に政権運営をするにしても、畿内を押さえることが必要でした。
また、信長の政権構想には、どうしても、大坂の地が必要でした。
(理由は少し以前に述べました)


さて、やっとの思いで大坂から本願寺を追い出し、いよいよ政権基盤を確固たる物にするための方策がスタートします。
(そして、二年後の天正十年にあっという間に信長は本能寺で死んでしまいます。織田政権を学ぶ上で、天正八年はとてもとても貴重な時期です。)

その手始めに行ったのが、
大和一国破城」「大和一国指出検地

そして、発言された、
「郡山一城残し」

深い意味があると思いませんか。この郡山城の立場。


さて、なぜ私は、郡山を選択したのが、信長だと思ったのか。
詳しくは二章の解説で述べますが、簡単に言えば、
順慶が、さあ郡山に入城しますよって言う日に、「信長上使来渡之了」と「多聞院日記」に書いてあったからです。
意味は、「信長からの使者が来て、筒井順慶に郡山城を渡した」ということです。

上様から部下に城を与えられております。

信長の命令により、郡山以外の大和の国の城をぜーーんぶ破壊させておいて、その上で、筒井順慶に、それでは、これからこの城を拠点に大和を治めよ、と順慶さんに与えたんですね。
やっぱり信長じゃないですか。郡山にしたのは。
(順慶が、私に大和を納めさせるなら、郡山を下さい!って叫んだかもしれませんが、その辺は二章で検証しています。)

そもそも、じゃあ、この信長が行った天正八年の政策は一体どういう過程で行われ、どんな意味があるのか。
それを勉強しない事には本当の信長の意図が分からないじゃないか。というのが、だんだん見えてきたのでした。

そこで、これを取り上げている先生が居られたのでその論文からまず勉強を進めました。

つづく
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2007年07月09日

「はじめに」

かんたん編。

さて、前置きをぐだぐだと長く書いてきましたが、別ブログに本文全部を掲載したことですし、少し、スピードを上げて、本文の中身の解説に入りたいと思います(余談も多いので読みにくいですが)。
その後、また、信長論を改めて論じていきたいと思います。


さて、卒論の出だしは、

「近世城下町大和郡山の発展は、天正8年(1580)の「一国破城令」により、織田信長が大和の中心として郡山を選んだ事により始まる。そこにはどの様な理由があったのか。」

ではじまります。

この卒論で語りたいのは、「なぜ、信長は大和一国の支配をする拠点に郡山を選んだのか?」です。
その理由は、郡山という土地は、豊臣政権下では、秀吉の弟秀長が入城し、大和をはじめ紀伊和泉なども含めた「百万石の城」として、整備されます。
しかし、実は、そのほんの数年前までは、大和のほんの一小城として存在していただけのものでした(当時を生きてたわけではないので、あくまで現在残る文献から見た限りではということですが(汗))。


私は疑問に思いました。
一体誰が、大和一国の支配を担う場所として、郡山城を選んだんだろう。
その人物は、なぜ、郡山に決めたんだろう。

そこで、いろいろと調べてみましたが、そこで分かったのが、

そんな事を論じている人は誰もいない!ということでした。

唯一見つけたのが、筒井順慶(大和の有力武将)が、その本拠筒井城に近く、立地の条件も本拠より良かったので、目をつけていた。
というものでした。(郡山町史など)
で、誰が始めにそういうことを言い出したかというと、永島福太郎という、奈良研究の第一人者でした。この人は凄いです。何が凄いかは、その本を読めば分かります

へ〜と思って、さらに調べてみても、他に誰も言ってないし、
そもそも、一国の居城を作るのにそんなに簡単な理由で良いのか?と疑問も出てきました。


それなら、自分で勝手に結論付けてやれ!と思って、
これは余談ですが、ちょうどその頃、別の卒論を書いてたのですが、それを辞めて、卒業するのもやめて、こっちに乗り換えて、翌年の卒業論文の題材にして改めて勉強しなおしたのでした。(親にはこっぴどく怒られた)。
私は不良学生だったので、ほとんど史料に当たるという経験がありませんでした。また、土地制度などは苦手なほうでした。基礎もままなりません。
いずれにせよ、今から基礎勉強しても間に合わないから、論文を片っ端から読みました(語彙が分からない事だらけでした)。

それでも、どこにも答えや参考になる文章すら見つけられませんでした。
なぜなら、中世大和の研究は、荘園制や寺社の研究ばかりでしたから。
しかし、それはどうしても、避けては通れません。避けてはいけません。
でも私はあえて、避けました。だって難しいから(爆)

大和の城郭研究にはバイブルがあります。それは村田修三先生が書かれた著書類です。これまた、お城の研究などしたこと無かった私には、理解が難しい。


そこで、とりあえず、史料に当たらないと話しにならないと思って、一級史料「多聞院日記」と、『大日本史料(史料綜覧)』だけはちゃんと読もうと決めて、ひたすら年表と解説を作り続けました。

そしてわかったこと。

大和郡山城に決めたのは、織田信長で間違いない!



ということでした。つづく。。。
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2007年07月03日

本願寺が信長に宣戦布告?

さて、織田信長と本願寺の戦いは、元亀元年(1570)に始まります。
ことの発端は、三好三人衆を討伐に大坂方面へ出兵しいていた織田軍に対し、本願寺が挙兵したことに始まります。

なぜ、本願寺は織田信長に突然牙を向いたのでしょうか?

現在の通説では、信長が本願寺に対し大坂石山の明け渡し要求したからと言われています。

当時は、信長は入京を果たしてしてまだ3年。
三好三人衆という、戦国の世になって、畿内地方で一時代を築いた三好家の有力武将たちが、信長の入京により畿内から追い出されて、それ以降ゲリラ的に織田軍団と戦っていました。
また、元亀元年は、姉川の合戦で浅井朝倉軍と激戦を行った直後です。

後に、荘厳華麗な天主(天守)を持つ安土城を築きますが、この本願寺のあった、大坂石山こそは、後の豊臣秀吉が巨大な城郭、大坂城を築いた土地でもあります。

京を中心に、
本拠のある岐阜や北陸方面への街道の押さえ、近江琵琶湖の交通の便に適した、安土城。
そして、西方、中国四国地方から、遠く海外との流通の押さえにも当たるのが大坂。

当時は、堺に港があり、京や奈良といった大都市の外港として栄え、その経済的繁栄は極みにありました。
この、堺を始め、大津、草津と言う貿易や港湾街道の拠点に代官を置く事を将軍に認めさせた信長。領地よりも経済軍事活動の拠点を支配する見地を有していた発想力は、山科消滅以降、本願寺が拠点としていた大坂と言う土地の繁栄ぶりに目をつけないはずが無いのでした。

この信長の経済活動、交通流通の拠点を押さえるという発想力は、私の卒論の後半部分での中心論点になります。どうぞ覚えていてください。


さて、結局本願寺時の法主顕如は、その要求をはねつけたばかりでなく、全国の門徒に、檄文のを発令、以後、11年にもわたる長い戦いが始まるのでした。
posted by taigon at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月19日

本願寺の歴史

歴史に詳しい方なら誰でも知っている事を、書きます。
最近読んだ本には全て同じ事が書いていました。

親鸞を祖とする真宗。
そのうちの一派、本願寺派。
中興の祖といわれるのが、親鸞から数えて十世の孫、本願寺八代法主蓮如。

その教えるところは
南無阿弥陀仏の名号を唱え、一心に信仰する心を持てばすべての者が救われる。
極楽浄土が保障される。女人と言えども例外ではない。

蓮如が法主となったときの本願寺は大変さびれていたが、蓮如一人の恐るべき努力で、一大勢力となります。

時代は十五世紀後半。
京近郊では一揆が頻発し、武将の家督争いが激化、幕府では、八代将軍義政の後継者を争いが発展し応仁の乱が勃発。
日本全国大混乱の時期にあたります。

そんな中、蓮如は布教に邁進。どのような者にでも気さくに会い、講と呼ばれる道場を中心とした仲間を作るよう進め、その人々に、各地から頻繁に自らの思いを託した「御文」と呼ばれる直筆の文書を出し、常に一心同体を意識させて、共に信仰に努められるよう組織していきます。

道場では法要のあとには、酒が出され、言いたい事を話し合い、女性も参加していました。
道場の求心力は大変なものだったと思います。

蓮如自身、妻帯し、子供も27人もいたと伝わっています。


一大勢力への変身した本願寺派は、他宗のみならず同宗他派からの圧力攻撃にさらされ、また、各地の有力者にも一目置かれ、ついには、政治の道具として、政争に巻き込まれていく事になります。
その組織力と多勢により、ついには加賀の内紛に関与し、圧政に対し発起し最終的には、加賀の守護を自殺に追い込みました(加賀一向一揆)。その後90年にわたる百姓のもちたる国と呼ばれます。
しかし、蓮如自身は政争に巻き込まれたり、利用される事は望まなかったといいます。

大きな弾圧は1465年の叡山僧兵による、大谷本願寺の襲撃から始まります。堅田に身を避けるも、1468年の堅田大責(かただおおせめ)となど迫害は増します。
叡山からの迫害を避けるため、はじめ現福井県の吉崎に道場を開きます。
これが加賀一向一揆の発祥といえます。しかし、その争いをさけるように、吉崎を退去。そして、山城山科に本願寺を再建。1480年に御影堂が完成。
さらに、蓮如が無くなる三年前の1496年に、土豪からの寄進により石山本願寺ができました。この石山の本願寺こそ、信長と10年にわたる戦を繰り広げた場所です。

蓮如が生きた時代は、信長よりも一世紀近く前ですので、その業績はそこそこに、次回は、一向一揆が政治にどう関与し、いかに利用され、最終的に、なぜ石山に信長と戦わなければならなかったのかを、書きたいと思います。
posted by taigon at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月08日

「一国破城」「大和指出」の復習です。

久しぶりに、本文の解説をに戻ります。
ここで少し復習です。

私が注目した信長の大和での政策は、
天正八年(1580年)に行われた「一国破城」「大和指出」と呼ばれる二つの政策です。

「一国破城」とは、大和国内の城を大和郡山城を除き全て破壊させるというもの。
「大和指出」とは、大和の国内の寺社国人などの所有する田畑などの面積や年貢高を、報告させるというもの。

でした。

どちらも、同じ時期に一国規模で行われておりました。
http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/7292385.html#more


当時の大和の情勢は、
長年にわたり、興福寺管符衆徒の棟梁の座を争っていた国人。
それ以上に、応仁の乱など、あちらこちらの片棒を担ぎ、京の情勢に左右され続けた大和住人。
そうこうしているうちに、松永久秀という、三好長慶の配下が、大和に侵攻することを認められ、信貴山と多聞山に城を築き支配しようとする新しい展開。
これは、それまでずっと興福寺権力の下でいた大和に、まったく新しい風が吹き始めた事を意味します。
松永久秀は、さらに時の覇者織田信長によって、大和の仕置きを許され、従来の国人たちには辛い日々が続く。
しかし、ついに好機到来、松永久秀が信長に謀反。すばやく筒井順慶を始め大和国人は信長の配下になることに成功。
いよいよ大和国人に大和の支配を任されるのか!と思いきや、信長は直参の有力武将を次々に派遣し、大和の支配をしようとする。

しかし、大和の外に目を移してみると、信長は、信長包囲網に苦しみながらも、幸運が味方し、武田信玄が死に、将軍を追放し、上杉謙信が死に、と少しずつ事態は好転し、後は本願寺を屈服させるのだけ、という状態まできていました。

大和に目を戻すと、大和の支配を受け持っていた、原田直政が一向一揆との戦いで討ち死にするという事態が起こり、ここについに、筒井順慶という、大和の有力武将に、信長は大和を任せることに下のでした。

しかし、その後まだ、本願寺との戦の終結には数年を必要としました。


そして、ついに本願寺との戦が終わったのが、天正八年でした。

織田政権の安定には必要だった、本願寺との戦いの終結。
そこについて、次回は解説できればと思います。
posted by taigon at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 解説!(かんたん編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月21日

大和と近隣諸国

大和の地侍は、「国人」「衆人(しゅと)」という二種類のタイプに分けられることは以前に説明しました。

http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/8218636.html#more

大和のことだけを調べていると、
「管符衆徒の棟梁」になることを目標にした戦いの歴史
が、分かってきます。

しかし、それ以上に、信長入京前の大和の武士の動向は、むしろ近隣の諸国と連動した戦の連続だった事が良く分かります。

特に、大和の武士は、河内や山城の大名との関係が深かったようで、とくに、河内の畠山氏の命令で戦に出て行くこともありました。


ともかく、複雑で簡単に理解するのが困難な中世戦国期の畿内。
その辺を、もっと私自身が勉強して、分かりやすく解説できるよう努めて行きたいと思います。
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『信長記』と信長・秀吉の時代 [単行本] / 金子拓 (編集); 勉誠出版 (刊) 織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ [単行本] / 金子拓 (著); 勉誠出版 (刊) 天下人の城―信長から秀吉・家康へ [単行本] / 千田 嘉博 (著); 風媒社 (刊)
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