2015年07月29日

村上海賊の娘 漫画化

和田竜さんの『村上海賊の娘』 織田家と毛利家の海戦「木津川口の戦い(木津川合戦)」を描いた小説。 この度、漫画化されることが発表されました。 愛媛新聞のニュース→「海賊の娘」続編書くなら 今治で著者招きシンポ マイナビではもっと詳しくカット入りで→和田竜の小説「村上海賊の娘」がマンガ化!スピリッツで8月に開幕 織田信長も当然のように出てきますし、織田家にとっても重要な戦いの一つですね。 ところで、この小説を読みながら一つ気が付いたことがあり..
posted by taigon at 11:05

2010年09月14日

名将の采配で長篠の戦い

既報の通り、13日のNHK「名将の采配」で「織田徳川連合軍vs武田軍」、長篠の戦いが取り上げられました。 ざっと見た感じ、悪くなかったんではないでしょうか。 軍の配置や、兵数などは、だいたい信長公記によって紹介されていましたね。 有名な鉄砲の三段撃ちにには一切触れることもしていませんから、ここも信長公記によっている感じですか。 鉄砲隊の数を聞きそびれましたが、別働隊が500丁引き連れて行ったところなどは、信長公記に寄っている感じでしたし、あまり不自然さ..
posted by taigon at 15:16

2009年01月03日

多聞山城四階櫓考

あけましておめでとうございます。 本年も「織田信長を考えてみる」をよろしくお願いいたします。 突然ですが、 記事に入る前に、お詫びと訂正をさせて頂きます。 前回までにも、何度も多聞院日記、多聞山城について言及してきましたが、相当数誤字を使っていたようでした。 本当に申し訳ありません。利用するパソコンによって、変換が多門になっていることが多々あったようです。 アクセス解析をすると、昔はそうでもなかったのですが、最近は随分多くの方にこのブログも読んで頂..
posted by taigon at 17:48

2008年12月30日

多聞山城四階ヤクラを建てたのは誰だ?

久しぶりに歴史研究的な話をしてみようと思います。 木戸雅寿氏が以前にとあるシンポで発表された資料から私なりに整理してみます。 Wikipediaで、「天守」を調べてみましょう。 ウィキのいいところは、世間のいわゆる「一般」「常識」を知りうる手段となりうるところです。 さて、そこでは「天守の起源」について迫ろうとしてます。 その一つとして、松永久秀による永禄年間築城の「多聞山城(多聞城)」に「四階櫓」があった。ことを紹介しています。 俗に言う..
posted by taigon at 23:35

2007年11月03日

最後のテーマ 新展開へ

さて最後のテーマ。 筒井順慶を大和存知にした理由。 これは、本論ではほとんど触れていません。 しかし、最後の駄目押しで紹介しておきます。 信長がはじめた、大和での政策。 しかし、検地をした上で出した結果は、「安堵」で、現状維持を確約。 そして、大和の新統治者として、改めて筒井順慶を選ぶ。 筒井順慶は、何度か紹介したとおり、中世の権威興福寺の衆人です。 信長としては、最初松永久秀に大和を支配させる予定でしたが 松永謀反の結果滅ぼしてしまったので、柴..
posted by taigon at 15:12

2007年07月16日

第二章 第一節

一章の解説は如何だったでしょうか? それでは、卒論本文の、二章〜まとめ を数回に分けて掲載します。 長くて読みにくいと思いますがご了承ください。 ちなみに、卒論本文を纏めて読むにはこちらのブログでも可能です。 また、便利です。どうぞご利用ください。 http://taigon-net-rekisi2.seesaa.net/ 第二章 一節 第2章 大和支配と郡山  1章では筒井順慶が郡山に入城するまでを見てきた。ここでは郡山を拠点とした、..
posted by taigon at 19:46

2007年07月14日

大和の歴史を振返る

大和の歴史については、このブログでも何度か紹介してきました。 このブログの初期の内容は、大和の解説が多いので、まだお読みで無い場合、ぜひご覧下さい。 ある程度、このブログもまとまってきたら、整理して読みやすくしたいと思っていますが、それはまた余裕が出来たら行います。 今は卒論の本文に沿ってかんたん編を書いているので、ともかくすすんでいきますね。 さて、私の卒論の一番の弱みがこの第一章二節です。 何せ、荘園制の勉強などしたこともないのに、荘園の大本所が支配..
posted by taigon at 20:31

2007年06月08日

「一国破城」「大和指出」の復習です。

久しぶりに、本文の解説をに戻ります。 ここで少し復習です。 私が注目した信長の大和での政策は、 天正八年(1580年)に行われた「一国破城」「大和指出」と呼ばれる二つの政策です。 「一国破城」とは、大和国内の城を大和郡山城を除き全て破壊させるというもの。 「大和指出」とは、大和の国内の寺社国人などの所有する田畑などの面積や年貢高を、報告させるというもの。 でした。 どちらも、同じ時期に一国規模で行われておりました。 http://taigon-..
posted by taigon at 19:05

2005年11月20日

東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)

さて、解説もいよいよ天正八年が近づいてきていますが、ここで少し話題を変えて。 織田信長と大和、といえば、一つとても有名な出来事があります。 それは、東大寺宝物、蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りです。 私の論文本文には出てこない話題ですが、信長と大和を語るのにはずせないと思いまして、本格的に、本文の内容の解説に行く前に、触れておきます。 さて、この蘭奢待。検索すれば分りますが、東大寺は正倉院の宝物として、保存されている香木です。 詳細については、w..
posted by taigon at 19:29

2005年11月19日

多聞城の破却と、久秀の謀反

かんたん編! 天正四年に筒井順慶が大和の守護として信長より任命されると、続いて、順慶は信長から多聞山城の破却を命じられます。 多聞城といえば松永久秀自慢の居城でした。後に多聞櫓にも名を残す、四層の櫓(いわゆる天守)をあげた初めての城ともいわれています。 松永久秀は、信長にはむかったため、多聞城を追われ、その後恭順の意を示すも、大和の支配権は剥奪されました。その上、原田直政の死後、筒井順慶に守護が任せられ、かつての居城多聞山城が破却されるにいたり、どのような気持ち..
posted by taigon at 21:57

2005年11月15日

原田直政の死

かんたん編 大和の守護として赴任してきた原田直政について少し。 元々塙(ばん)直政と名乗っていましたが、天正三年の信長の武将達が叙任を受けた際、原田備中守となりました。 信長の信頼も扱ったようで、今まで見てきたように、複雑な土地柄で支配の難しい大和の守護に任命される、その以前にも、同じように政治的に複雑な京の膝元「山城」の守護にも既に任命されており、二国の太守でした。 余談ですが、この京と奈良は、現在でこそ府県名ですが、当時は都市名で今で言う東京23区や、..
posted by taigon at 15:59

2005年11月01日

信長の初期の大和支配

かんたん編。 大和統治に乗り出した信長は、松永久秀を多聞城から追い出すと有力武将を多聞城の城番として派遣します。 その顔ぶれは、 明智光秀細川藤孝柴田勝家原田直政といった、有名どころです。 始めの明智、細川というところは、一ヶ月ごとにやってきており、松永久秀の多聞山城退去後の混乱を治めるために、派遣されたとみられます。 柴田勝家は天正二年三月よりおよそ一年間滞在したことになっています。常駐したかどうかは別にして、奈良の施政に干渉したと言う記事も..
posted by taigon at 18:46
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。